鎌倉幕府の執権は全部で17人いました。鎌倉時代の中心人物として誰がいて、何をしたのか、歴代の執権を順番に、在職期間や在職中の出来事を含めて年表にしました。
執権をとおして鎌倉時代の流れを把握しましょう!
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鎌倉幕府は1185年から1333年までつづいた日本ではじめての武家政権です。
鎌倉幕府の名目上のトップは「将軍」ですが、事実上の(政務を行い、御家人に命令を下せる)トップは「執権」と呼ばれる役職でした。
執権は北条氏がつくり、代々北条氏が独占しました。これにより、北条氏が鎌倉幕府内で最高実力者でありつづけました。
鎌倉幕府には執権が17人いました。誰が、いつからいつまで務めていて、そのときに起こった出来事や政策は何か、またその時代の将軍は誰なのかを一覧にまとめました。
代 | 執権 | 在職期間 | 出来事 | 将軍 | |
1 | 北条時政 | 1203年~1205年 | 【1203年】 比企能員の乱 | 源頼家 | |
【1205年】 ・藤原定家らが『新古今和歌集』を編集する ・北条時政が有力御家人の畠山氏をほろぼす | |||||
源実朝 | |||||
2 | 北条義時 | 1205年~1224年 | 【1206年】 チンギス=ハンがモンゴル帝国を建国 | ||
【1212年】 鴨長明が随筆『方丈記』を書く | |||||
【1213年】 和田合戦(和田義盛の滅亡) | |||||
【1219年】 3代将軍・源実朝が公暁により暗殺される | |||||
【1221年】 ・承久の乱 ・六波羅探題の設置 | |||||
3 | 北条泰時 | 1224年~1242年 | 【1225年】評定衆が設置される | 藤原頼経 | |
【1232年】執権・北条泰時が御成敗式目を制定 | |||||
4 | 北条経時(つねとき) | 1242年~1246年 | |||
藤原頼継 | |||||
5 | 北条時頼 | 1246年~1256年 | 【1247年】宝治合戦(三浦泰村の滅亡) | ||
宗尊親王 | |||||
6 | 北条長時 | 1256年~1264年 | 【1260年】日蓮が『立正安国論』を北条時頼に献じる | ||
7 | 北条政村 | 1264年~1268年 | 【1268年】元帝国より通交を求める国書が届く | ||
惟康親王 | |||||
8 | 北条時宗 | 1268年~1284年 | 【1274年】文永の役 | ||
【1281年】弘安の役 | |||||
9 | 北条貞時 | 1284年~1301年 | 【1285年】霜月騒動(安達泰盛の滅亡) | ||
【1293年】 ・平禅門の乱 (内管領・平頼綱を討伐) ・鎮西探題の設置 | |||||
【1297年】永仁の徳政令 | |||||
久明親王 | |||||
10 | 北条師時 | 1301年~1311年 | |||
守邦親王 | |||||
11 | 北条宗宣 | 1311年~1312年 | |||
12 | 北条煕時(ひろとき) | 1312年~1315年 | |||
13 | 北条基時 | 1315年~1316年 | |||
14 | 北条高時 | 1316年~1326年 | 【1324年】正中の変 | ||
15 | 北条貞顕(さだあき) | 1326年(11日間) | |||
16 | 北条守時 | 1326年~1333年 | 【1331年~】元弘の乱 | ||
【1333年】足利高氏(尊氏)が六波羅探題を滅ぼす | |||||
17 | 北条貞将(さだゆき) | 1333年(1日) | 【1333年】鎌倉幕府滅亡 |
源頼朝の死後、源氏将軍の力をおさえるために13人の有力御家人からなる合議制を採用。さらに有力御家人の力もそぎ落としにかかります。
まず、13人のメンバーでもある侍所別当である梶原景時に弾劾状をつきつけて鎌倉から追放(梶原景時の変)。追っ手を差し向けて滅ぼします。
さらに、13人の1人であり源頼家の外戚である比企能員を謀殺(比企能員の変)。激怒した源頼家も追放して将軍位から降ろして源実朝を将軍にすえます。この後、比企能員謀殺に加わった有力御家人畠山義忠にも謀反の疑いをかけてほろぼしました。
最後には将軍源実朝の暗殺もくわだてますが失敗して鎌倉から追放されました。
当初、父・北条時政とは異なり、御家人との協同関係を築こうとする姿勢をみせます。しかし、有力御家人の排除にも乗り出し、1213年有力御家人の和田義盛を挑発して反乱を起こさせ、敗死させます(和田合戦)。
4代目の将軍として後鳥羽上皇の皇子を迎え入れようと画策していたところ、1219年に3代将軍源実朝が公暁に暗殺されるという事件が起こります。
この混乱で後鳥羽上皇は皇子の鎌倉下向を拒否。さらに1221年に鎌倉幕府追討の兵を挙げます(承久の乱)。
後鳥羽上皇の反乱を鎮めた北条義時は、京都に六波羅探題を設置して朝廷の監視を強めます。
さらに皇族や後鳥羽上皇に味方した西国武士の所領を没収して東国武士に分け与えました(新補地頭)。
父・北条義時の死後、北条政村を執権に就けようとする動きがありましたが北条政子らが阻止(伊賀の変)。
北条泰時は無事に3代執権となりましたが、後ろ盾だった大江広元と北条政子が相次いで亡くなり、政治基盤が弱い中での船出になりました。
そこで、執権の補佐をする連署と、13人の合議制と同様の機関である評定衆を設置。執権の政治的地位を強めようとします。
また、京都の摂関家(九条家)から藤原頼経を4代将軍として招きいれます。
「執権」を「征夷大将軍を補佐する立場」として大義名分を持たせる、鎌倉幕府の運営を合議制にして他の御家人から北条一族内の不満を和らげるといった配慮をしながら政権運営を行いました。
北条泰時より晩年に評定衆のひとりに任命され、政治的地位を高められます。泰時死後に4代執権となりますが、若くして病に伏せます。
将軍藤原頼経の周辺で反執権派の動きが活発になってくると、藤原頼経を将軍位からおろして藤原頼嗣を次期将軍に就けます。
政務に積極的に取り組んでいたようですが、病に勝てず執権就任から4年後に亡くなりました。
4代北条経時が病に伏して以降、北条時頼が政務を代行しました。経時の死後は時頼が執権に就任します。
就任直後から北条氏得宗(北条氏の嫡流で執権を受け継ぐ血統)に対する反乱が相次ぎます。
まず、前将軍藤原頼経の側近だった北条(名越)光時が反乱を起こします(鎮圧)。さらに翌年の1247年には有力御家人の三浦泰村が反乱を起こしますが鎮圧(宝治合戦)。
そして反北条氏の千葉秀胤もほろぼし、得宗専制政治を確立します。
1252年には後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を5代将軍として鎌倉に迎え入れ、朝廷との関係も強めます。
同時に、得宗専制政治への御家人の不満をやわらげるために、連署の下に引付衆を設置して領土問題の裁判を迅速に行えるようにしました。
病気になって引退して北条長時に執権をゆずりますが、政治の実権をにぎりつづけました。これにより、執権や連署を形骸化して得宗が政治的に中心となる体制をつくりました。
5代北条時頼の息子である北条時宗が成人するまでの中継ぎ執権でした。事務に忠実で温厚な人柄、権力欲は乏しかったとされています。
若くして病気で亡くなりました。
北条政村も北条時宗が成人するまでの中継ぎとして執権に就任しました。
1266年、謀反の疑いがかかった宗尊親王を更迭して京都に送り返します。
また、1268年には元帝国より国書が届き、「通交」を求められます。通交をしない場合に軍の派遣をほのめかす内容であり、この事態に対処するため北条時宗に執権職を譲って自らは連署として執権を補佐する立場を取ります。同時に侍所別当もかねて、御家人の統率をはかります。
執権に就任早々、元帝国からの襲来(元寇)に備えることになります。
国を挙げて元寇にそなえるため、亀山上皇から全国の武士への命令権を獲得します。
1274年文永の役、1281年弘安の役を経て九州の武士団も統制下に置き、九州の武士を管理するために九州探題を設置します。また、中国地方最西端の長門にも長門探題や長門警固番役を置いて防備を固めるとともに武士の統制を強めました。
ただ、御家人への恩賞が少なくしたことで御家人の不満が高まり、鎌倉幕府滅亡の一因にもなりました。
父・北条時宗が若くして亡くなったため、14歳で執権に就任。政務は有力御家人の安達泰盛が担当します。
元寇で窮乏した御家人救済のために安達泰盛が奔走しますが、得宗の家来である御内人が反発。1285年御内人の代表である内管領・平頼綱と争ったすえに安達泰盛はほろぼされます(霜月騒動)。
霜月騒動以降、平頼綱が鎌倉幕府で実権をにぎりますが、1293年に平禅門の乱で平頼綱を滅ぼして実権を取り戻し、得宗専制政治を再開します。
元寇以来生活が窮乏していた御家人から土地の所有をめぐる訴訟の迅速な解決が強く望まれます。その不満をおさえるために1297年永仁の徳政令を出しますが、御家人の不満を高める結果となりました。
1301年、息子の北条高時を将来の執権にすえるために引退し、中継ぎとして北条師時を執権にすえます。実験は北条高時がにぎりましたが、政務への情熱がうすれて放置するようになります。
そのため得宗の家臣である御内人や得宗ではないほかの北条氏が合議制で政務を担当します。
この結果、得宗専制政治は実質的に崩壊し、得宗は名目上の職務になっていきました。
北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職にありました。ただし、実権はありませんでした。
結果的に9代北条貞時より早くなくなりました。評定中(今で言う重役会議)に座にありながら息絶えたとされています。
10代北条師時の死後、北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職に就きました。政治の実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担っていました。
執権就任後も実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担いました。
連署を置かないなど、執権に実権を取り戻そうとする動きもみえましたが、最後は病気のため亡くなりました。
10~12代執権と同様、北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職に就きました。政治の実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担っていました。
1316年に北条高時が成人したのを機に、執権職を譲っています。
1333年に鎌倉が攻め落とされた際に自害して果てています。
9代執権・北条貞時の三男で、幼少期から「将来の執権」として育てられました。
ただ、その間に政治の実権は内管領の長崎円喜と得宗外戚の安達時顕がにぎるようになっていました。そのため、執権就任後も実権はなくお飾り状態でした。
1324年に後醍醐天皇が鎌倉討幕計画を立てます(正中の変)。計画が露見して後醍醐天皇の側近が配流されます。
なお、北条高時は病弱だったらしく、30代の若さで病気のため亡くなっています。
北条高時が病気になってからは北条貞顕が政務を代行し、高時の死後に執権に就任します。
ところがこの執権就任に一族の間で猛反対が起こり、わずか10日で退任しました(嘉暦の騒動)。
北条貞顕の退任後に執権となったのは北条守時です。執権がお飾り状態となり、内管領の長崎円喜と得宗外戚の安達時顕による権力争いも起こっていたため、鎌倉幕府の地盤は弱くなっていました。
1331年後醍醐天皇がふたたび鎌倉討幕計画を立てます。討幕計画が幕府に露見して後醍醐天皇は流罪となりますが、楠木正成らの活躍で情勢は鎌倉幕府にとって徐々に不利になります。
1333年、姻戚関係にあった足利高氏(尊氏)が六波羅探題をほろぼし、幕府内で北条守時は裏切り者として非難を浴びます。
鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢と戦い、敗れて自刃しました。
16代北条守時が戦死し、執権職が空位になります。
新田義貞軍との戦闘で東勝寺にこもっていた14代北条高時の救援にかけつけ、感激した北条高時から冥土の土産として(?)執権に任命されました。翌日敗死したので執権職在位は1日だったことになります。
各執権の政務状況を紹介しました。まとめると、執権政治は3つの時期に分かれます。
料理のプロも認める最上級のオリーブオイル!『オリーブハート』1つ目は初代北条時政から5代目北条時頼までの時期です。この頃は執権が中心となって政治を担っていました。
2つ目の時期は6代北条長時から9代北条貞時までです。この頃は執権を世襲制にして、得宗に権力を集めていく時期です。9代北条貞時は内管領・平頼綱をほろぼして、得宗専制政治を確立しました。
なお、5代目の北条時頼が息子の北条時宗を将来の執権にしようと画策し、6-7代執権を中継ぎの執権という位置づけにしました。以降、このやり方が定着して、9代目の北条貞時も三男の北条高時を執権にするため、それまでの執権を中継ぎ化しました。
ただし、執権が単なる中継ぎになったため、内管領や御内人が力をつけだすという副産物が生まれてしまいます。
3つ目は10代北条師時以降です。北条高時を執権にするため10~13代は中継ぎの執権でした。中継ぎなので権威はあまりなく、結局内管領と得宗外戚に政治の実権を取られてしまいます。
9代目の北条貞時が執権引退後に酒浸りになって政務を放棄したことも大きく影響しました。
その結果、10代以降の執権はお飾りの役職となり、政務に関わるよりも和歌を遺すようになりました。
いかがでしょうか。
鎌倉幕府の執権について順番や在職期間、出来事を年表形式で紹介しました。鎌倉将軍も年表にのせているので、鎌倉時代の出来事を執権と将軍の両方で確認できます。
執権は将軍を補佐して幕府の政務を担います。初代北条時政から5代北条時頼までと8代北条時宗、9代北条貞時は機能しましたが、それ以降は内管領や得宗外戚に実権をにぎられました。
執権の動きを代ごとに見返すと、鎌倉幕府滅亡までの流れを把握しやすくなります。
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