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鎌倉幕府の執権とは?歴代執権一覧と役割、北条氏の権力をわかりやすく解説【高校生テスト対策】

北条政子 高校生勉強方法
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鎌倉幕府の執権は全部で17人いました。鎌倉時代の中心人物として誰がいて、何をしたのか、歴代の執権を順番に、在職期間や在職中の出来事を含めて年表にしました。

執権をとおして鎌倉時代の流れを把握しましょう!

※関連記事:鎌倉時代の年表

鎌倉幕府における執権の役割とは?

「執権」とは鎌倉幕府内での政務トップです。どのような役割を担っていたのかを振り返ります。

鎌倉幕府の政治体制と執権の役割

鎌倉幕府は、1185年に源頼朝が全国の武士をまとめて成立した武家政権です。

鎌倉幕府は従来の朝廷による統治とは異なり、武士階級が中心となって政治を行いました。

幕府の政治機構は、将軍が最高権力者として君臨するものの、実際の政治や行政は複数の機関が分担する形で進められました。その中でも、執権(しっけん)は非常に重要な役割を担っていました。

執権とは、将軍を補佐し、幕府内での実務を取り仕切る役職です。特に源頼朝死後の鎌倉幕府では、将軍は象徴的な存在にとどまり、実際の政治や行政、御家人(ごけにん:将軍に仕える武士)の統制などは、執権が中心となって行いました。

  • 執権は、将軍と御家人の間に立つ調整役として機能し、幕府内外の安定を図りました。
  • また、幕府内の裁判や行政、軍事指揮など、さまざまな業務を監督することで、武士たちの利益を守る役割を担いました。

執権制度が生まれた背景

頼朝の死後と権力争い

執権制度が確立された背景には、源頼朝の死後に生じた幕府内での権力争いがあります。

1199年に頼朝が亡くなると、息子である源頼家が2代将軍として就任しました。しかし、頼家は政治能力に乏しく、将軍家の権力が弱まる中で、幕府内部では御家人たちによる主導権争いが激化しました。

この混乱の中で、頼家の母である北条政子とその父である北条時政が中心となり、頼家を失脚させて3代将軍に源実朝を擁立します。これにより、北条氏が幕府内での権力を掌握することになります。

政所別当から執権への変化

もともと、幕府内には政所(まんどころ)という行政機関があり、そこを統括する役職が政所別当でした。北条時政はこの政所別当を務めていましたが、次第にこの役職が権力を持つようになり、後に「執権」と呼ばれるようになります。

初代執権である北条時政は、将軍を補佐しながら、事実上の幕府の最高権力者として政務を行いました。

以後、執権は北条氏が代々世襲し、将軍を補佐する役職から、幕府を支配する中心的な権力者へと変わっていきます。

執権の主な役割と権限

朝廷や御家人との調整役

執権の重要な役割の一つは、朝廷や御家人との調整です。

  • 朝廷が依然として京都に存在し、形式的な支配権を持っていたため、執権は幕府と朝廷の間での交渉や連絡を担当しました。特に、天皇や貴族からの要望に対して幕府がどう対応するかを決定する重要なポジションでした。
  • また、御家人たちの間で生じる土地の争い恩賞の配分を調整する役割も担いました。御家人は幕府の基盤であり、彼らを適切に統制することが、幕府の安定にとって不可欠でした。

裁判や政務を取り仕切る権限

もう一つの重要な役割は、幕府内での裁判や行政を取り仕切ることです。鎌倉幕府は、武士社会のルールに基づく裁判を行うために、執権がその責任者として公正な裁判の実施を監督しました。

  • 代表的な例として、3代執権北条泰時が制定した御成敗式目(ごせいばいしきもく)があります。これは、武士の行動規範をまとめた日本初の成文法であり、泰時はこの法令をもとに裁判を公正に行い、御家人たちの信頼を得ました。

さらに、執権は政務全般を統括し、軍事行動の指揮や、経済政策の立案、寺社勢力との関係構築など、幅広い業務をこなしていました。

こうした政治体制の結果、鎌倉幕府は武士社会の秩序を維持し、150年にわたって続く安定した政権を築くことができました。

鎌倉幕府の執権一覧

鎌倉幕府には執権が17人いました。誰が、いつからいつまで務めていて、そのときに起こった出来事や政策は何か、またその時代の将軍は誰なのかを一覧にまとめました。

執権在職期間出来事将軍
1北条時政1203年~1205年【1203年】
比企能員の乱
源頼家
【1205年】
・藤原定家らが『新古今和歌集』を編集する
・北条時政が有力御家人の畠山氏をほろぼす
源実朝
2北条義時1205年~1224年【1206年】
チンギス=ハンがモンゴル帝国を建国
【1212年】
鴨長明が随筆『方丈記』を書く
【1213年】
和田合戦(和田義盛の滅亡)
【1219年】
3代将軍・源実朝が公暁により暗殺される
【1221年】
・承久の乱
・六波羅探題の設置
3北条泰時1224年~1242年【1225年】評定衆が設置される藤原頼経
【1232年】執権・北条泰時が御成敗式目を制定
4北条経時(つねとき)1242年~1246年 
藤原頼継
5北条時頼1246年~1256年【1247年】宝治合戦(三浦泰村の滅亡)
宗尊親王
6北条長時1256年~1264年【1260年】日蓮が『立正安国論』を北条時頼に献じる
7北条政村1264年~1268年【1268年】元帝国より通交を求める国書が届く
惟康親王
8北条時宗1268年~1284年【1274年】文永の役
【1281年】弘安の役
9北条貞時1284年~1301年【1285年】霜月騒動(安達泰盛の滅亡)
【1293年】
・平禅門の乱
(内管領・平頼綱を討伐)
・鎮西探題の設置
【1297年】永仁の徳政令
久明親王
10北条師時1301年~1311年 
守邦親王
11北条宗宣1311年~1312年 
12北条煕時(ひろとき)1312年~1315年 
13北条基時1315年~1316年 
14北条高時1316年~1326年【1324年】正中の変
15北条貞顕(さだあき)1326年(11日間) 
16北条守時1326年~1333年【1331年~】元弘の乱
【1333年】足利高氏(尊氏)が六波羅探題を滅ぼす
17北条貞将(さだゆき)1333年(1日)【1333年】鎌倉幕府滅亡

執権北条氏の動き

初代北条時政

源頼朝の死後、源氏将軍の力をおさえるために13人の有力御家人からなる合議制を採用。さらに有力御家人の力もそぎ落としにかかります。

まず、13人のメンバーでもある侍所別当である梶原景時に弾劾状をつきつけて鎌倉から追放(梶原景時の変)。追っ手を差し向けて滅ぼします。

さらに、13人の1人であり源頼家の外戚である比企能員を謀殺(比企能員の変)。激怒した源頼家も追放して将軍位から降ろして源実朝を将軍にすえます。この後、比企能員謀殺に加わった有力御家人畠山義忠にも謀反の疑いをかけてほろぼしました。

最後には将軍源実朝の暗殺もくわだてますが失敗して鎌倉から追放されました。

2代北条義時

当初、父・北条時政とは異なり、御家人との協同関係を築こうとする姿勢をみせます。しかし、有力御家人の排除にも乗り出し、1213年有力御家人の和田義盛を挑発して反乱を起こさせ、敗死させます(和田合戦)。

4代目の将軍として後鳥羽上皇の皇子を迎え入れようと画策していたところ、1219年に3代将軍源実朝が公暁に暗殺されるという事件が起こります。

この混乱で後鳥羽上皇は皇子の鎌倉下向を拒否。さらに1221年に鎌倉幕府追討の兵を挙げます(承久の乱)。

後鳥羽上皇の反乱を鎮めた北条義時は、京都に六波羅探題を設置して朝廷の監視を強めます。

さらに皇族や後鳥羽上皇に味方した西国武士の所領を没収して東国武士に分け与えました(新補地頭)。

3代北条泰時

父・北条義時の死後、北条政村を執権に就けようとする動きがありましたが北条政子らが阻止(伊賀の変)。

北条泰時は無事に3代執権となりましたが、後ろ盾だった大江広元と北条政子が相次いで亡くなり、政治基盤が弱い中での船出になりました。

そこで、執権の補佐をする連署と、13人の合議制と同様の機関である評定衆を設置。執権の政治的地位を強めようとします。

また、京都の摂関家(九条家)から藤原頼経を4代将軍として招きいれます。

「執権」を「征夷大将軍を補佐する立場」として大義名分を持たせる、鎌倉幕府の運営を合議制にして他の御家人から北条一族内の不満を和らげるといった配慮をしながら政権運営を行いました。

4代北条経時

北条泰時より晩年に評定衆のひとりに任命され、政治的地位を高められます。泰時死後に4代執権となりますが、若くして病に伏せます。

将軍藤原頼経の周辺で反執権派の動きが活発になってくると、藤原頼経を将軍位からおろして藤原頼嗣を次期将軍に就けます。

政務に積極的に取り組んでいたようですが、病に勝てず執権就任から4年後に亡くなりました。

5代北条時頼

4代北条経時が病に伏して以降、北条時頼が政務を代行しました。経時の死後は時頼が執権に就任します。

就任直後から北条氏得宗(北条氏の嫡流で執権を受け継ぐ血統)に対する反乱が相次ぎます。

まず、前将軍藤原頼経の側近だった北条(名越)光時が反乱を起こします(鎮圧)。さらに翌年の1247年には有力御家人の三浦泰村が反乱を起こしますが鎮圧(宝治合戦)。

そして反北条氏の千葉秀胤もほろぼし、得宗専制政治を確立します。

1252年には後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を5代将軍として鎌倉に迎え入れ、朝廷との関係も強めます。

同時に、得宗専制政治への御家人の不満をやわらげるために、連署の下に引付衆を設置して領土問題の裁判を迅速に行えるようにしました。

病気になって引退して北条長時に執権をゆずりますが、政治の実権をにぎりつづけました。これにより、執権や連署を形骸化して得宗が政治的に中心となる体制をつくりました。

6代北条長時

5代北条時頼の息子である北条時宗が成人するまでの中継ぎ執権でした。事務に忠実で温厚な人柄、権力欲は乏しかったとされています。

若くして病気で亡くなりました。

7代北条政村

北条政村も北条時宗が成人するまでの中継ぎとして執権に就任しました。

1266年、謀反の疑いがかかった宗尊親王を更迭して京都に送り返します。

また、1268年には元帝国より国書が届き、「通交」を求められます。通交をしない場合に軍の派遣をほのめかす内容であり、この事態に対処するため北条時宗に執権職を譲って自らは連署として執権を補佐する立場を取ります。同時に侍所別当もかねて、御家人の統率をはかります。

8代北条時宗

執権に就任早々、元帝国からの襲来(元寇)に備えることになります。

国を挙げて元寇にそなえるため、亀山上皇から全国の武士への命令権を獲得します。

1274年文永の役、1281年弘安の役を経て九州の武士団も統制下に置き、九州の武士を管理するために九州探題を設置します。また、中国地方最西端の長門にも長門探題や長門警固番役を置いて防備を固めるとともに武士の統制を強めました。

ただ、御家人への恩賞が少なくしたことで御家人の不満が高まり、鎌倉幕府滅亡の一因にもなりました。

フビライハンと北条時宗

9代北条貞時

父・北条時宗が若くして亡くなったため、14歳で執権に就任。政務は有力御家人の安達泰盛が担当します。

元寇で窮乏した御家人救済のために安達泰盛が奔走しますが、得宗の家来である御内人が反発。1285年御内人の代表である内管領・平頼綱と争ったすえに安達泰盛はほろぼされます(霜月騒動)。

霜月騒動以降、平頼綱が鎌倉幕府で実権をにぎりますが、1293年に平禅門の乱で平頼綱を滅ぼして実権を取り戻し、得宗専制政治を再開します。

元寇以来生活が窮乏していた御家人から土地の所有をめぐる訴訟の迅速な解決が強く望まれます。その不満をおさえるために1297年永仁の徳政令を出しますが、御家人の不満を高める結果となりました。

1301年、息子の北条高時を将来の執権にすえるために引退し、中継ぎとして北条師時を執権にすえます。実験は北条高時がにぎりましたが、政務への情熱がうすれて放置するようになります。

そのため得宗の家臣である御内人や得宗ではないほかの北条氏が合議制で政務を担当します。

この結果、得宗専制政治は実質的に崩壊し、得宗は名目上の職務になっていきました。

10代北条師時

北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職にありました。ただし、実権はありませんでした。

結果的に9代北条貞時より早くなくなりました。評定中(今で言う重役会議)に座にありながら息絶えたとされています。

11代北条宗宣

10代北条師時の死後、北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職に就きました。政治の実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担っていました。

12代北条煕時

執権就任後も実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担いました。

連署を置かないなど、執権に実権を取り戻そうとする動きもみえましたが、最後は病気のため亡くなりました。

13代北条基時

10~12代執権と同様、北条高時が執権に就任するまでの中継ぎとして執権職に就きました。政治の実権はなく、内管領の長崎円喜などが政務を担っていました。

1316年に北条高時が成人したのを機に、執権職を譲っています。

1333年に鎌倉が攻め落とされた際に自害して果てています。

14代北条高時

9代執権・北条貞時の三男で、幼少期から「将来の執権」として育てられました。

ただ、その間に政治の実権は内管領の長崎円喜と得宗外戚の安達時顕がにぎるようになっていました。そのため、執権就任後も実権はなくお飾り状態でした。

1324年に後醍醐天皇が鎌倉討幕計画を立てます(正中の変)。計画が露見して後醍醐天皇の側近が配流されます。

なお、北条高時は病弱だったらしく、30代の若さで病気のため亡くなっています。

15代北条貞顕

北条高時が病気になってからは北条貞顕が政務を代行し、高時の死後に執権に就任します。

ところがこの執権就任に一族の間で猛反対が起こり、わずか10日で退任しました(嘉暦の騒動)。

16代北条守時

北条貞顕の退任後に執権となったのは北条守時です。執権がお飾り状態となり、内管領の長崎円喜と得宗外戚の安達時顕による権力争いも起こっていたため、鎌倉幕府の地盤は弱くなっていました。

1331年後醍醐天皇がふたたび鎌倉討幕計画を立てます。討幕計画が幕府に露見して後醍醐天皇は流罪となりますが、楠木正成らの活躍で情勢は鎌倉幕府にとって徐々に不利になります。

楠木正成

1333年、姻戚関係にあった足利高氏(尊氏)六波羅探題をほろぼし、幕府内で北条守時は裏切り者として非難を浴びます。

鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢と戦い、敗れて自刃しました。

後醍醐天皇

17代北条貞将

16代北条守時が戦死し、執権職が空位になります。

新田義貞軍との戦闘で東勝寺にこもっていた14代北条高時の救援にかけつけ、感激した北条高時から冥土の土産として(?)執権に任命されました。翌日敗死したので執権職在位は1日だったことになります。

執権政治の流れまとめ

各執権の政務状況を紹介しました。まとめると、執権政治は3つの時期に分かれます。

1~5代は執権中心

1つ目は初代北条時政から5代目北条時頼までの時期です。この頃は執権が中心となって政治を担っていました。

6~9代は得宗専制政治

2つ目の時期は6代北条長時から9代北条貞時までです。この頃は執権を世襲制にして、得宗に権力を集めていく時期です。9代北条貞時は内管領・平頼綱をほろぼして、得宗専制政治を確立しました。

なお、5代目の北条時頼が息子の北条時宗を将来の執権にしようと画策し、6-7代執権を中継ぎの執権という位置づけにしました。以降、このやり方が定着して、9代目の北条貞時も三男の北条高時を執権にするため、それまでの執権を中継ぎ化しました。

ただし、執権が単なる中継ぎになったため、内管領や御内人が力をつけだすという副産物が生まれてしまいます。

10代以降は傀儡化

3つ目は10代北条師時以降です。北条高時を執権にするため10~13代は中継ぎの執権でした。中継ぎなので権威はあまりなく、結局内管領と得宗外戚に政治の実権を取られてしまいます。

9代目の北条貞時が執権引退後に酒浸りになって政務を放棄したことも大きく影響しました。

その結果、10代以降の執権はお飾りの役職となり、政務に関わるよりも和歌を遺すようになりました。


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北条氏が執権を独占した理由

鎌倉幕府において、執権は次第に将軍を凌ぐ権力を持つようになりました。その中心となったのが北条氏です。

北条氏は執権職を代々世襲し、約150年にわたり幕府の実権を握り続けました。

北条氏が執権を独占できた背景には、巧みな政治的手腕と権力基盤の構築がありました。

北条氏による御家人支配の仕組み

北条氏が権力を独占できた要因の一つは、御家人に対する所領安堵(あんど)と恩賞配分の管理にあります。鎌倉時代の武士にとって、所領(領地)は生活の基盤であり、戦功に応じた恩賞は忠誠を維持するために重要でした。

北条氏はこのシステムを利用して御家人を支配しました。

所領安堵と恩賞配分の管理

  1. 所領安堵:御家人が持つ土地の所有権を幕府が承認し、保護することを指します。北条氏は執権として、御家人の所領を安堵し、安定した生活を保証しました。この制度によって、御家人たちは北条氏に従わざるを得なくなります。
  2. 恩賞配分:戦に参加した御家人には、新たな所領や役職を与える恩賞が必要です。北条氏は戦功に応じた恩賞を公平に配分することで、御家人の忠誠心を維持しました。特に承久の乱(1221年)後、北条泰時は多くの反乱鎮圧に協力した御家人に対し、大規模な恩賞を与えました。さらに西国の武士の所領も没収したため、鎌倉幕府の支配が全国にいきわたりました。この戦略により、北条氏は御家人層を強固な支持基盤にしました。
  3. 御成敗式目の制定:3代執権の北条泰時が制定した御成敗式目(1232年)は、御家人の所領や裁判の基準を明確に定めた法律です。御家人間の紛争を公正に裁くことができ、北条氏への信頼が強化されました。

御家人からの支持と反発

北条氏は一貫して御家人層からの支持を集めようとしましたが、時には反発を受けることもありました。支持を得た政策と、反発が生じた事例を見ていきましょう。

御家人から支持を得た政策

  1. 御成敗式目の制定:この法律は、御家人が自らの権利を守るためのルールを提供し、公平な裁判を可能にしました。そのため、御家人層からは「北条氏は公正な統治者である」という評価を受けました。
  2. 経済的安定策:北条貞時(9代執権)は御家人の借金を帳消しにする「徳政令」を出し、生活に困窮する御家人を救済しました。(ただし、長期的には逆効果でした。)

御家人からの反発

  1. 得宗専制政治:北条氏が権力を強化する中で、特に得宗(北条氏の嫡流)が権力を独占するようになりました。これにより、他の御家人や幕府内の有力者たちは次第に不満を募らせます。
  2. 御家人の窮乏:元寇(1274年、1281年)の後、御家人に対する十分な恩賞が与えられず、御家人の経済状況が悪化しました。この不満が北条氏の権力基盤を徐々に弱体化させました。

執権政治が安定した理由と衰退の要因

安定した理由

  • 北条氏は、承久の乱で朝廷に勝利し、幕府の権威を全国的に確立しました。
  • 御成敗式目などの法整備により、公正な統治を行い、御家人の信頼を得たことが安定につながりました。

衰退の要因

  • 得宗専制政治による権力の集中が、御家人たちの反発を招きました。
  • 元寇後の経済的負担により、御家人の生活が苦しくなり、幕府への不満が高まりました。
  • 1333年に新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡。後醍醐天皇は建武の新政をはじめました。

テスト頻出!鎌倉幕府の執権に関する重要ポイント

よく出るポイント

鎌倉幕府の執権制度は、歴史の中でも重要な転換点となる出来事と結びついているため、テストで頻出します。特に以下の点がよく問われます。

  1. 承久の乱(1221年)
    北条政子の演説と北条泰時の活躍により、朝廷を打ち破ったこの出来事は、北条氏の権力が全国に及ぶきっかけとなりました。
    ➡ 問題例:「承久の乱の後、幕府が朝廷に与えた影響を説明せよ。」
  2. 御成敗式目(1232年)
    武士による日本初の成文法であり、北条泰時が制定しました。
    ➡ 問題例:「御成敗式目が制定された理由と、その内容を説明しなさい。」
  3. 執権と将軍の役割の違い
    将軍は名目的な存在であり、執権が実際の政治を動かしていた点がテストで頻繁に問われます。
    ➡ 問題例:「鎌倉幕府における将軍と執権の違いを説明しなさい。」

執権と御成敗式目に関する一問一答問題

  1. 問題:初代執権は誰ですか?
    答え:北条時政
  2. 問題:御成敗式目を制定した執権は誰ですか?
    答え:北条泰時
  3. 問題:御成敗式目が制定されたのは何年ですか?
    答え:1232年
  4. 問題:承久の乱を起こして鎌倉幕府と戦った上皇は誰ですか?
    答え:後鳥羽上皇
  5. 問題:承久の乱が起こったのは何年ですか?
    答え:1221年
  6. 承久の乱の後、後鳥羽上皇が配流されたのは何という島ですか。
    答え:隠岐島

まとめ

いかがでしょうか。

鎌倉幕府の執権について順番や在職期間、出来事を年表形式で紹介しました。鎌倉将軍も年表にのせているので、鎌倉時代の出来事を執権と将軍の両方で確認できます。

執権は将軍を補佐して幕府の政務を担います。初代北条時政から5代北条時頼までと8代北条時宗、9代北条貞時は機能しましたが、それ以降は内管領や得宗外戚に実権をにぎられました。

執権の動きを代ごとに見返すと、鎌倉幕府滅亡までの流れを把握しやすくなります。

※関連記事:鎌倉幕府の将軍一覧:鎌倉幕府を開いた将軍から摂家将軍、皇族将軍まで9名の事績の紹介

【参考】
Wikipedia
戦国ヒストリー

プロフィール
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福地 暁です。
20年以上教育に携わり、現在は個別指導の塾を経営しています。

これまで3000組以上のご家庭を担当させていただき、中学受験(灘中・御三家など最難関含む)、高校受験、大学受験(医学部・旧帝大含む)への合格をアシストしてきました。

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