藤原広嗣の乱(740年)は、奈良時代の権力闘争の一環として発生した重要な事件です。
藤原四兄弟の死後、橘諸兄が実権を握り、政治的な混乱が続く中で、藤原広嗣が反乱を起こしました。
本記事では、藤原広嗣の乱の背景や原因、経緯、結果、さらに関連事件とのつながりを通じて、当時の政治状況を解説します。
高校の日本史のテスト対策に役立つ内容です。
奈良時代は710年から794年までの80年間です。この間、729年の長屋王の変にはじまり、757年の恵美押勝の乱まで藤原氏と他の貴族・僧との権力争いが繰り広げられました。
そのなかで、藤原広嗣の乱は740年に発生した事件です。その背景を以下に解説します。
参考:みやこ町デジタルミュージアム – 町史ダイジェスト – 藤原広嗣の乱と郷土
長屋王の変以降、藤原四兄弟が政治の中心にいました。その四氏が737年に天然痘で相次いで亡くなりました。藤原四兄弟の突然の死は、奈良時代の政治に大きな影響を与えました。
彼らは藤原氏の支配体制を強化し、権力の中枢を占めていたため、その死後、ほかの貴族との間で権力争いが激化しました。
四兄弟の死により藤原氏の権力が大きく揺らぎ、橘諸兄が実権を握ることになりました。
朝廷内での権力争いでの敗北が、藤原広嗣の乱を引き起こす背景となったのです。
なお、長屋王の変については以下の記事でくわしく解説しています。
長屋王の変とは?背景から影響まで徹底解説|聖武天皇や光明皇后の関わりも解説
聖武天皇と光明皇后は、奈良時代の政治を大きく左右する存在でした。
聖武天皇は、天然痘の流行や相次ぐ政変を受け、仏教の力で国を守ろうと仏教政策を積極的に行いました(鎮護国家)。南都六宗の支持を受け、政権の安定を図ろうとしたのです。
【聖武天皇の仏教政策】
国分寺・国分尼寺建立
東大寺大仏建立
光明皇后は聖武天皇の背後で政治的な影響力を持ち、聖武天皇の仏教政策に協力しました。
なお、聖武天皇はその治世に起きた変や乱の影響もあり、遷都をくり返しました。聖武天皇の遷都について、以下の記事でくわしく解説しています。
聖武天皇の遷都の順番・場所とその意義をわかりやすく解説【高校日本史テスト対策】
藤原広嗣は、藤原四兄弟の死後、橘諸兄が実権を握ることに強い不満を抱きました。橘諸兄は聖武天皇の側近として影響力を持ち、唐から帰国した玄昉や吉備真備を重用。藤原氏の勢力は大きく後退しました。
さらに藤原広嗣は太宰府勤務を命じられます。左遷されたと感じた藤原広嗣は、大きな不満を抱きました。
太宰府で不満を抱いていた藤原広嗣は、玄昉と吉備真備の排除を要請する形で橘諸兄に対して反抗。九州で挙兵し、反乱を起こしました。
藤原広嗣は自らの政治的立場を回復するために、橘諸兄とその支配に対して戦いを挑んだのです。
広嗣は九州地方を拠点に活動を始め、橘諸兄に反発する勢力を集めました。しかし、最終的には聖武天皇と橘諸兄の軍に鎮圧され、藤原広嗣は捕えられました。
反乱は短期間で終息し、藤原広嗣はその後処刑されることになります。
この一連の出来事は、奈良時代の政治的な混乱を象徴する事件となり、後の権力闘争の教訓となりました。
藤原広嗣の乱は、奈良時代の政治構造に深い影響を与えました。広嗣の乱によって、橘諸兄とその支持勢力の権力が強化され、逆に藤原氏の勢力はさらに後退しました。
しかし、この反乱が後の「橘奈良麻呂の変」や「恵美押勝の乱」などの事件につながっていきました。
いずれも権力争いに敗れた側が勝者に対して兵を起こして反抗し、そして鎮圧されています。
藤原広嗣の乱は、奈良時代の権力闘争における重要な転機であり、その後の政治的な対立の予兆を示していたのです。
740年藤原広嗣の乱は、その後の757年の橘奈良麻呂の変につながっていきました。
どちらも藤原氏と橘氏の権力争いが背景にあります。
740年藤原広嗣の乱 | 757年橘奈良麻呂の変 | |
藤原氏 | 藤原広嗣(反乱首謀者) | 藤原仲麻呂 |
橘氏 | 橘諸兄 | 橘奈良麻呂(反乱首謀者) |
結果 | 橘諸兄の勝利 | 藤原仲麻呂の勝利 |
なお、藤原広嗣の乱は橘諸兄に対する反発が原因で起こりましたが、事件の規模や結果には橘奈良麻呂の変と違いがあります。
藤原広嗣の乱は九州地方で起き、迅速に鎮圧されたのに対し、橘奈良麻呂の変は、橘奈良麻呂が首都で挙兵したことが特徴です。
なお、橘奈良麻呂の変については以下の記事でくわしく解説しています。
橘奈良麻呂の変とは?藤原広嗣の乱や恵美押勝の乱とのつながり、主要人物の解説【高校日本史テスト対策】
「恵美押勝の乱」は、藤原広嗣の乱と同じく、奈良時代の権力闘争の一環として位置づけられます。
恵美押勝とは「藤原仲麻呂」のことで、道鏡と対立し、権力争いに敗れて反乱を起こしました。
740年藤原広嗣の乱 | 764年恵美押勝の乱 | |
勝者側 | 橘諸兄 | 道鏡・孝謙上皇 |
敗者側 | 藤原広嗣(反乱首謀者) | 藤原仲麻呂(恵美押勝)・淳仁天皇 |
このように、藤原広嗣の乱が起きた背景には、当時の政治的な混乱と権力闘争の連続性があります。
藤原広嗣の乱が鎮圧された後も、橘諸兄の権力基盤に対する藤原氏の反発は続き、恵美押勝の乱へとつながっていきました。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)については以下の記事でくわしく解説しています。
764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を徹底解説!高校日本史テスト対策:背景・経緯・影響を押さえよう
藤原四兄弟は、藤原氏の権力を支え、律令政治を安定させる重要な存在でした。しかし、彼らの突然の死が政治的不安を引き起こし、藤原氏内部での権力闘争を生む原因となりました。
四兄弟の死後、橘諸兄が政権を掌握することになります。この変化が、藤原広嗣の乱を引き起こす大きな要因となりました。
橘諸兄は、藤原氏の実権を握った後、玄昉や吉備真備を重用しました。
藤原広嗣はこの人事に強い不満を持ったうえに、自身は太宰府へと異動になりました。中央政界から遠ざけられた藤原広嗣は玄昉や吉備真備を排除すべく反乱を起こしたのです。
橘諸兄の政治に対する藤原広嗣の反発は、乱の発生に大きな影響を与えました。
相次ぐ戦乱と天然痘の流行で日本社会は大きなダメージを受けていました。聖武天皇は仏教を政治的手段として用い、国家の安定を図りました。
特に、大仏建立を進めるなど、仏教を国の礎として位置づけました。
これがちょうど、聖武天皇が遷都をくり返していた時期にあたります。
藤原広嗣の乱をテストで押さえるためには、乱の年号や主要人物、関連事件をしっかりと覚えておくことが重要です。
特に、藤原広嗣、橘諸兄、聖武天皇などの名前や、藤原広嗣の乱が発生した背景を理解しておくことが大切です。
記述問題では、藤原広嗣の乱の背景や人物、乱の結果を説明することが求められます。
740年藤原広嗣の乱の後、757年橘奈良麻呂の変、764年恵美押勝の乱といった権力闘争の順番と関与した人物名を整理して覚えておきましょう。
奈良時代の権力闘争は複雑であり、藤原広嗣の乱もその一部に過ぎません。年表を用いて、藤原広嗣の乱がどのような位置にあるのかを整理することで、全体の流れを把握しやすくなります。
年表を見ながら、各事件の関連性を理解することが、テスト対策において非常に役立ちます。
年号 | 出来事 |
729年 | 長屋王が謀反の疑いで自害する(長屋王の変) |
740年 | ・藤原広嗣の乱が起こる ・聖武天皇が恭仁京の建設を開始する |
741年 | 国分寺建立の詔が発布される |
743年 | ・大仏造立の詔が出される ・墾田永年私財法が施行される |
752年 | 東大寺大仏の開眼供養が行われる |
753年 | 唐より鑑真が来日する |
757年 | 橘奈良麻呂の変が起こる |
758年 | ・淳仁天皇が即位する ・藤原仲麻呂が「恵美押勝」の名を賜る |
764年 | ・藤原仲麻呂の乱が起こる ・孝謙上皇が重祚して称徳天皇が即位する ・淳仁天皇が淡路に配流される(淡路廃帝) |
A1: 藤原広嗣の乱は、藤原四兄弟の突然の死によって引き起こされた政治的混乱の中で起こりました。四兄弟の死後、権力の空白が生まれ、その後を受けて橘諸兄が実権を握ります。これが藤原広嗣の不満を引き起こし、反乱へとつながったのです。
A2: 藤原四兄弟の死により、藤原氏と橘氏との間で権力争いが激化しました。橘諸兄が実権を掌握することで、藤原広嗣を含む藤原氏側は不満を抱き、政治的不安が高まることとなりました。この状況が広嗣の反乱を引き起こす原因となったのです。
A3: 聖武天皇と光明皇后は、仏教政策を通じて政権を強化しようとしました。特に、聖武天皇は仏教の力を借りて国内の統一を図り、光明皇后もその政治的影響力を行使していました。
A4: 藤原広嗣は、橘諸兄が実権を握り、玄昉や吉備真備を重用したことに強い不満を抱いていました。彼は藤原氏の後継者としての自分の立場を失い、橘諸兄の専横を阻止しようと考え、最終的に九州で反乱を起こしました。橘諸兄との対立が、広嗣の乱の主な原因です。
A5: 藤原広嗣の乱は最終的に鎮圧されました。彼の反乱は、奈良時代の政治に大きな影響を与え、後の「橘奈良麻呂の変」や「恵美押勝の乱」のような事件へとつながる布石となりました。
A6: 「橘奈良麻呂の変」と藤原広嗣の乱は、どちらも権力闘争の一環として起こりました。両者の背景には、藤原氏や橘氏などの豪族同士の権力争いがあります。橘諸兄は藤原氏の台頭を押さえ、藤原仲麻呂は橘奈良麻呂の台頭を押さえました。このような権力争いがその後の変や乱を引き起こしたのです。
A7: 高校の日本史テストでは、藤原広嗣の乱に関連する年号や主要人物(藤原広嗣、橘諸兄、聖武天皇など)、その背景となる権力闘争を理解することが重要です。さらに、記述問題では他の事件(橘奈良麻呂の変や恵美押勝の乱)の重要人物と混乱しないよう、表などで人物を整理しておくこともポイントです。
A8: 「恵美押勝の乱」と藤原広嗣の乱は、どちらも奈良時代の権力争いの延長線上にあります。藤原広嗣の乱では橘氏側(橘諸兄)が勝利し、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱では藤原氏側(藤原仲麻呂)が勝利しました。どちらの事件も、藤原氏と橘氏の権力争いが続く時代背景を示しています。
A9: 藤原広嗣の乱は、奈良時代の政治に深刻な影響を与えました。乱の後、藤原仲麻呂の成長にともなって藤原氏と橘氏の権力争いは激化していきました。これが後の橘奈良麻呂の変や恵美押勝の乱など、さらなる権力闘争を引き起こすきっかけとなりました。
A10: 藤原広嗣の乱において、藤原広嗣自身は反乱を起こす主導者であり、橘諸兄と玄昉や吉備真備はその対立相手として登場します。聖武天皇と光明皇后は仏教政策を通じて権力を握っており、九州で反乱を起こした藤原広嗣を排除する側に立ちました。
藤原広嗣の乱は、藤原四兄弟の死後の政治的不安定と、橘諸兄との権力闘争が引き起こした事件です。
橘諸兄が藤原氏ではなく玄昉や吉備真備を重用したうえ、藤原広嗣自身が太宰府に異動になったために不満が爆発しました。反乱は短期間で鎮圧されましたが、その後の橘奈良麻呂の変や恵美押勝の乱へと続く権力争いのきっかけとなりました。
これらの歴史的背景を理解しておくと、奈良時代の政治の動きを把握しやすくなり、定期テストや大学入試でも正解しやすくなります!
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