歴史の定期テストで点が取れなくて困っている中学生は多いですよね。
歴史の定期テストで高得点を獲得するためには、各時代の年表をしっかりと理解することが不可欠です。
特に安土桃山時代は日本史の中でも重要な時期であり、その年表をマスターするとテストでスラスラと解けるようになります。
そこで今回は、安土桃山時代年表を効果的に学ぶための5つのポイントと、テストでよく出題されるポイントを解説します。
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安土桃山時代を理解するのに、年表を使うと分かりやすいです。
年表を使う効果的なテスト勉強法を紹介します。
安土桃山時代には多くの武将や戦国大名が活躍し、様々な戦いが繰り広げられました。
年表をみて、それぞれの出来事や登場人物に関するキーワードや用語をしっかり理解することが重要です。
例えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの重要な武将の名前や、本能寺の変、山崎の戦いなどの出来事に焦点を当て、それぞれの関連性を覚えましょう。
安土桃山時代の出来事は多岐にわたりますが、時系列で整理することで出来事の流れを理解しやすくなります。
最初から最後までの流れを順番に確認することで、各時点の出来事がどのような経緯でつながっているのかがより明確になります。
これにより、記憶に定着しやすくなり、テストで正解を思い出しやすくなります。
年表中の人物名や出来事にマーカーで線を引いたり、印をつけるようにしましょう。
すると、どの人物のときに何があったのか(何をしたのか)を視覚的に確認しやすくなり、記憶の定着率があがります。
特に重要人物である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は色分けしておきましょう。
それぞれの活躍した時期や順番(織田信長→豊臣秀吉→徳川家康)が見やすくなり、「単なる丸暗記」ではなく整理して覚えられるようになります。
人物と出来事を色分け出来たら、それぞれの出来事がなぜ起こったのか(なぜそのような法令が出されたのか)も一緒に覚えるようにしましょう。
単なる日付や名前だけでなく、各出来事の背景やその影響も理解しておくと、テストでの理解度が深まります。
例えば、豊臣秀吉の天下統一がどのような状況や経緯から生まれたのか、その後の時代への影響は何だったのかといった背景をしっかりと覚えることが重要です。
定期テストでは頻繁に出題されるポイントがあります。
教科書や過去の過去問を参考に、どの出来事や人物、年号がよく問われるかを把握しましょう。
これにより、重点的に復習することができ、テスト対策が効果的に進むでしょう。
また、この記事の後半にも頻出ポイントをくわしく解説していますので、ぜひ参考にしてください!
まとめると、安土桃山時代の年表をマスターするためには、下記の5点が大切です。
これらのポイントを押さえて計画的な学習を心がければ、歴史の定期テストで高得点を狙うことができます。
1543年 | 種子島に鉄砲伝来 |
1549年 | キリスト教伝来 |
1573年 | 織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放する |
1575年 | 織田・徳川連合軍が長篠の戦いで武田軍に勝つ |
1582年 | ・織田信長が武田家をほろぼす ・織田信長が明智光秀に本能寺の変で暗殺される ・豊臣秀吉が太閤検地をはじめる |
1583年 | 豊臣秀吉が賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで柴田勝家に勝つ |
1584年 | 豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが行われる |
1586年 | 豊臣秀吉が太政大臣になる |
1588年 | 豊臣秀吉が刀狩りを行う |
1590年 | 豊臣秀吉が関東の北条氏に勝って全国統一を果たす |
1592年 | 文禄の役がはじまる |
1597年 | 慶長の役がはじまる |
1598年 | 豊臣秀吉が没する |
1600年 | 関ヶ原の戦いが起こる (徳川家康が石田三成に勝利する) |
いかがでしょうか。
最初は赤字の織田信長ばかりで、つづいて青字の豊臣秀吉ばかりになっています。そして緑字の徳川家康は最初から最後までちょっとずつ顔を出して、最後に天下を取っています。
年表を色分けするとこのような「権力者の移り変わり」がよくわかります。
安土桃山時代は中世(鎌倉時代・室町時代)から近世(江戸時代)への橋渡し的な時期でした。
安土桃山時代は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3名と関連する出来事、また南蛮貿易でもたらされた事物をみると理解しやすくなります。
そこで、安土桃山時代の主要人物3名とその事績を紹介しながらテストの頻出ポイントを見てみましょう。
なお、内容は山川日本史探求教科書をもとにしています。
安土桃山時代は織田信長・豊臣秀吉による天下統一までの事績と、それを引き継いだ徳川家康の3名が特に重要です。
織田信長は安土桃山時代の代表的な戦国大名で、勢力を拡大して天下統一を志向しました。
鉄砲の大量使用、キリスト教の保護、楽市楽座による税収入アップなどで軍事力を大きく上げ、その卓越した政治手腕により戦国時代を終結させる原動力となりました。
織田信長は尾張(今の愛知県)の大名として近隣の大大名である今川義元と争っていました。
1560年今川義元が尾張に攻め入りますが、桶狭間の戦いで敗れ、義元は信長に討たれてしまいます。
この戦いを契機に織田信長は近隣を切り取り、勢力を伸ばしはじめます。
さらに勢力を伸ばした織田信長は足利義昭を擁立して京都に入ります。
京都で足利義昭は将軍に就任し、織田信長は室町幕府の重鎮として扱われます。
近畿の大半を制圧した織田信長は不仲になった将軍・足利義昭も追放します。
これにより室町幕府が滅亡したと考えられます。(諸説あります。)
同時期、信長に従わない仏教勢力(比叡山延暦寺など)を武力で従わせています。
逆に、貿易による経済的利益の見込めるキリスト教は保護していました。
甲斐国(現在の山梨県)の有力大名であった武田家を織田・徳川連合軍が打ち破ります。
強敵を次々撃破した織田信長は現在の滋賀県(琵琶湖沿岸)に安土城を築きます。安土城には天守閣があり、当時としては巨大な城でした。
さらにこの頃、経済を発展させて税収入を増やすため楽市楽座を実施します。これは、関所を廃止するなどして自由な商工業を発展させるための政策でした。
天下統一が見えてきた矢先、京都の本能寺で配下の明智光秀の襲撃を受けて織田信長は死亡します(本能寺の変)。
この頃から日本にはポルトガル人やスペイン人がやってくるようになります。
彼らは日本では「南蛮人」と呼ばれ、もたらす文化や技術は「南蛮技術」と呼ばれて大商人や大名の間で人気でした。
桶狭間の戦いで信長に討たれたのは駿河(するが)の大名・今川義元で、長篠の戦いで敗れた大名は武田勝頼です。
楽市楽座の実施目的(自由な商工業を発展させるため)も記述問題でよく出てきます。
豊臣秀吉は信長の家臣から台頭し、本能寺の変後に戦国時代の混乱を収め、天下統一を果たしました。
全国の土地の石高(お米がどれだけ収穫できるか)を調べ、台帳に記すという政策をはじめます。これを太閤検地といいます。
これにより、支配層が得られる税収入が分かり、配下武将に対して課す軍役(戦争のときに何名の兵士を連れてくるか)を正確に把握できるようになりました。
織田家の家臣で有力ライバルだった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ります。これにより、天下統一に向けた動きが加速していきます。
天下統一に向けた大きなライバルだった徳川家康と戦い、引き分けます。これを小牧・長久手の戦いといいます。
この頃、石山本願寺の跡地に大坂城を築いて本拠地にします。
着々と天下統一事業を進めた豊臣秀吉は朝廷にも働きかけ、1585年に関白、1586年には太政大臣に任命されます。
武士が太政大臣になるのは平清盛以来でした。
領土・領民に対する支配を強めていきます。
この頃(1588年)、農民の武器を取り上げて農作業に専念させるため、刀狩令を出しています。
農民と武士の身分差を明確にすることが目的でした。これを兵農分離といいます。
また、キリスト教に脅威を感じ出したため、キリスト教を禁止して宣教師を国外追放する法令を出しました。この時点ではキリスト教の禁止の度合いはゆるやかで、追放されずに日本にとどまった宣教師もいました。
そして1590年、関東地方を支配していた北条氏を攻めて降伏させ、天下統一を果たします。
この後、大名たちの領土を入れ替えるなどして、先祖伝来の土地から切り離します。中央集権体制を整えていきました。
国内を統一した後、明(中国)を征服しようと1592年に明への途上にある朝鮮半島に攻め入ります(文禄の役)。決着はつかず、一度は和睦(わぼく)をしますが、1597年に再び朝鮮半島に攻め入ります(慶長の役)。
この戦いは1598年に豊臣秀吉の死没により終了しました。
また、この戦いのさなかに朝鮮半島から陶工たちを日本に連れ去り、日本での焼き物技術が発展しました。佐賀県の有田焼もこのときに生まれました。
豊臣秀吉の事績で大きなものは天下統一と兵農分離です。
1590年に北条氏を降して天下統一を果たすとともに、太閤検地と刀狩で支配を強めつつ兵農分離を進めました。
兵農分離を進めたのは、田畑をたがやしている農民が領主に対して一揆を起こしたときの恐ろしさを豊臣秀吉が痛感していたからです。
太閤検地、刀狩、兵農分離はセットで覚えておきましょう。とくに兵農分離と刀狩は記述問題でもよく問われます。
これらはすべて国内で豊臣家の支配を固めるための措置でした。
朝廷から関白や太政大臣に任命してもらい、「ハク」をつける。
大坂城を築いて他大名に攻められても守り切れるようにする。
さらに、キリスト教を信じる大名(キリシタン大名)が豊臣秀吉のような支配層よりもヨーロッパにあるキリスト教会や法王(キリスト教のトップ)を大事にしていることを知り、キリスト教を禁止する。
なお、文禄の役・慶長の役は年号と一緒に覚えておきましょう。1回目が文禄の役で2回目が慶長の役です。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いて平和な時代の土台を築きました。
徳川家康は三河国(現在の愛知県東部)を治めていました。若いころに織田信長と同盟を結び、姉川の戦いや長篠の戦いなどをともに経験しました。
織田信長が本能寺の変で亡くなった後は、小牧・長久手の戦いを経て豊臣秀吉の配下になります。
関東に領土をもらい、江戸を本拠地としました。
豊臣秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いで石田三成に勝ち、天下を治める実力者になります。
このように、同盟者→配下→天下人と立場を変えていった人物でした。
「1600年関ヶ原の戦い」が良く出ます。この戦いは東軍と西軍に分かれていました。
上記を覚えておきましょう。
安土桃山時代は文化も発展しました。
それまでの日本的なわび・さびの文化に戦国時代の荒々しさが加わり、豪華で壮大な文化になりました。
千利休などの茶人がお茶を飲む習慣を「茶の湯」の文化にまで発展させ、「わび茶」を確立させました。
茶の湯は身分を越えた社交の場となり、茶道は日本の文化の一翼を担うようになりました。
能・狂言もさらに発展し、出雲阿国という女性芸人がかぶきおどりをはじめて人気になりました。これが現在の歌舞伎の原形になります。
絵画にも安土桃山時代の豪華な雰囲気が加わりました。
狩野永徳という絵師が「唐獅子図屛風」など勇壮な絵画を描いて有名になり、江戸時代でも狩野派として続いていきました。
ポルトガル人やスペイン人との貿易(南蛮貿易)によって入ってきた時計やパン、装束が人気となり、南蛮文化と呼ばれる芸術・風俗に発展しました。
安土桃山時代は、日本の歴史において戦国時代から江戸時代への転換期であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった人物の台頭や出来事があり、文化に大きな影響を与えました。
最期に、歴史の流れを勉強しやすい本や参考書を3冊紹介します。
問題集に答えを書き込みながら年表を仕上げていくスタイルです。
自分で書いていくので頭に残りやすいです。
出版社:文英堂
年号を語呂合わせで覚えられる参考書です。
年号を覚えるのが苦手な中学生に人気です。
出版社:増進堂・受験研究社
こちらも年表に書き込みながら覚える方式です。
秀逸なのが、イラストや資料をふんだんに掲載してくれている点です。
「文字だけだと覚えづらい!」という人も視覚的に覚えられます。
出版社:学研プラス
いかがでしょうか。
中学生の歴史の勉強のために、年表を使って安土桃山時代を理解する方法を紹介し、安土桃山時代でテストによく出るポイントを解説しました。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3名の人物と関連する出来事を覚え、南蛮貿易によって南蛮文化が発達したことを覚えておきましょう。
歴史年表を使えばテストで高得点を取れるようになりますよ!
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