橘奈良麻呂の変は奈良時代における政治的権力争いを象徴する重要な事件です。
律令政治が確立された一方で、有力貴族の間で激しい対立が続いていたこの時代に、橘氏と藤原氏の勢力争いがどのように展開したのかを詳しく見ていきます。
本記事では、事件の背景や経緯、影響、さらに他の権力闘争との比較を通じて、奈良時代の政治構造を分かりやすく解説し、高校日本史テストに向けた対策ポイントをお伝えします!
奈良時代は律令制度が確立し、中央集権的な国家運営が行われました。しかし、その制度を支える貴族たちの間では権力闘争が頻繁に発生しました。
律令政治では官職や地位が重要な権威と富の源泉であり、これを巡る争いが激化しました。また、律令制度は中央と地方の均衡を図るものの、現実には貴族間の私利私欲が制度運営に影響を与えました。
このような背景の中で、「橘奈良麻呂の変」は発生し、当時の律令政治の構造的な矛盾を象徴しています。
奈良時代の半ば、聖武天皇が即位したころに権力を握っていたのは長屋王でした。ところが長屋王は藤原四兄弟の策謀により謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれました。これを長屋王の変(729年)と呼びます。
長屋王の死後、藤原四兄弟が政治の実権をにぎりました。ところが、737年にはその藤原四兄弟が天然痘で相次いで亡くなりました。次に台頭したのが橘諸兄でした。
なお、長屋王の変については以下の記事でくわしく解説しています。
長屋王の変とは?背景から影響まで徹底解説|聖武天皇や光明皇后の関わりも解説
【藤原四兄弟】
長男の武智麻呂(むちまろ):南家
次男の房前(ふささき):北家
三男の宇合(うまかい):式家
四男の麻呂(まろ):京家
橘諸兄は天平文化の発展を支えた功績がある一方、藤原四兄弟の死後に台頭し、藤原氏以外の勢力として朝廷を支えました。
反発する藤原広嗣は反乱を起こしますが敗北。藤原氏は勢力を後退させました。
※藤原広嗣の乱については以下の記事でくわしく解説しています。
藤原広嗣の乱を徹底解説!背景・経緯・影響と長屋王の変や橘奈良麻呂の変とのつながり【高校日本史】
しかし、橘諸兄の政権運営(玄昉や吉備真備を重用)に対しては批判もあり、藤原仲麻呂が徐々に勢力を拡大していきます。
藤原仲麻呂は光明皇后の甥という関係性を利用して権力を蓄え、橘氏との対立が深刻化しました。このような政治的背景が「橘奈良麻呂の変」の引き金となりました。
757年、20年間にわたって政治の中心にいた橘諸兄が死去しました。その直後に事件が起こりました。
参考:イラストで学ぶ楽しい日本史「757年 橘奈良麻呂の変がおこる」
橘奈良麻呂は父・橘諸兄の後を継ぎ、朝廷内での地位を確保しようとしました。しかし、藤原仲麻呂の勢力が急速に伸び、橘氏は次第に追い詰められます。
橘奈良麻呂は藤原仲麻呂排除を目指してクーデターを計画しましたが、計画は密告により露見。奈良麻呂は捕縛され、処刑されました。
この事件は橘氏の政治的影響力を大きく低下させる結果となりました。
事件後、藤原仲麻呂が権力の中心に立ちました。
孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位し、橘奈良麻呂の変を迅速に鎮めた藤原仲麻呂に「恵美押勝」の名を与えました。
恵美押勝とは、「人民を恵む美が優れ、乱を防いで押し勝つ功績があった者」という意味で、藤原仲麻呂をたたえる意味があります。
こうして藤原仲麻呂(恵美押勝)は絶対的な権威を確立しました。一方、橘氏は没落し、他の貴族勢力も藤原氏の独走を抑えることが難しくなりました。
この事件は奈良時代の権力構造の変化を象徴し、その後の朝廷政治に大きな影響を与えました。
藤原広嗣の乱は740年に発生し、地方官であった藤原広嗣が中央集権に対して反乱を起こした事件です。
藤原四兄弟の死後に朝廷で大きな権力をにぎった橘諸兄に対して起こした反乱でした。
藤原広嗣の乱は早期に鎮圧され、朝廷内では藤原氏の権力がさらに低下。逆に橘諸兄の勢威は上がりまました。
この頃からしばらく、藤原氏がほかの貴族の下風に立たされる苦しい時期がつづくことになりました。
橘奈良麻呂の変と恵美押勝の乱は連続した権力闘争として捉えることができます。
奈良麻呂が失脚した後、藤原仲麻呂(恵美押勝)が勢力を伸ばし、朝廷内で絶対的な地位を確立しました。
しかし、藤原仲麻呂も僧・道鏡との権力争いに敗れ、764年に恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)を起こしました。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)については以下の記事でくわしく解説しています。
764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を徹底解説!高校日本史テスト対策:背景・経緯・影響を押さえよう
橘諸兄は、聖武天皇時代の政権を支えた重要人物であり、天平文化の発展にも寄与しました。
しかし、藤原四兄弟の死後に政権の中心に立ったことで藤原氏からの反発を受けるようになり、徐々に藤原仲麻呂に押されていきました。
その息子である奈良麻呂の代には藤原仲麻呂に完全に政治的実権を奪われました。
藤原仲麻呂は孝謙天皇との信頼関係を活かして橘家との権力争いに勝ち、政権の中心に据わりました。さらに淳仁天皇との関係も強化し、政治の実権を引き続き掌握しました。
淳仁天皇の即位後には橘奈良麻呂の変が起こりましたが、それを利用して対立勢力を排除。自らの地位を確立しました。
しかし、その後、道鏡との権力闘争で敗北を喫します。
孝謙天皇は、奈良時代の政治において重要な役割を果たしました。
聖武天皇の治世では橘諸兄が政治の実権を握っていましたが、孝謙天皇の時代になると藤原仲麻呂を重用し、再び藤原氏を朝廷内の中心に据えました。
上皇となってすぐ発生した橘奈良麻呂の変では、事件の収束後も朝廷の安定を目指して政治を動かしました。
しかし藤原仲麻呂よりも道鏡を寵愛するようになり、藤原仲麻呂の乱を誘発。淳仁天皇を廃するなど朝廷の不安定化を招きました。
彼女の治世は、天皇の権威と貴族の力関係が複雑に絡み合った時代でした。
記述問題では、誰と誰の争いで、結果どうなったのかを問われます。奈良時代に起きたいくつかの変・乱のを連続して覚えると、記憶に残りやすくなります。
長屋王の変
↓
藤原広嗣の乱
↓
橘奈良麻呂の変
↓
藤原仲麻呂の乱
上記の順番をしっかり覚えておくと、丸暗記に頼らずに事件の背景と影響を解答しやすくなります。
奈良時代は、わずか40年間に権力争いが矢継ぎ早に発生しています。年表を使うと、順番や全体像を把握しやすくなります。
年号 | 出来事 |
729年 | 長屋王が謀反の疑いで自害する(長屋王の変) |
740年 | ・藤原広嗣の乱が起こる ・聖武天皇が恭仁京の建設を開始する |
741年 | 国分寺建立の詔が発布される |
743年 | ・大仏造立の詔が出される ・墾田永年私財法が施行される |
752年 | 東大寺大仏の開眼供養が行われる |
753年 | 唐より鑑真が来日する |
757年 | 橘奈良麻呂の変が起こる |
758年 | ・淳仁天皇が即位する ・藤原仲麻呂が「恵美押勝」の名を賜る |
764年 | ・藤原仲麻呂の乱が起こる ・孝謙上皇が重祚して称徳天皇が即位する ・淳仁天皇が淡路に配流される(淡路廃帝) |
769年 | 宇佐八幡宮神託事件が起こる(道鏡が天皇になり損ねる) |
詳しくは以下の記事で解説しています。
奈良時代の年表:奈良時代の流れや出来事の解説と年表を使った中学・高校のテスト対策の仕方を紹介
A: 橘奈良麻呂の変は、奈良時代の757年に起きた政変で、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂が中心となり、藤原仲麻呂(後の恵美押勝)を排除しようとしたクーデター未遂事件です。結果的に奈良麻呂は失敗し、関係者は処罰されました。
A: 奈良時代には律令制度が整備される一方で、藤原氏や橘氏といった有力貴族の間で激しい権力争いが続いていました。橘諸兄の没落後、藤原仲麻呂が権力を掌握しており、これに対抗するため橘奈良麻呂がクーデターを計画したのです。
A: 橘奈良麻呂は、孝謙天皇や他の貴族を巻き込みながら藤原仲麻呂の打倒を計画しましたが、仲麻呂側の迅速な対応により事前に発覚しました。奈良麻呂は捕えられ、事件に関与した者たちは処罰されました。
A: 橘奈良麻呂の変によって藤原仲麻呂の権力基盤がさらに強化され、仲麻呂は「恵美押勝」の称号を得て、事実上の最高権力者となりました。一方、橘氏は政治的影響力を大きく失いました。
A: この事件は、藤原広嗣の乱(740年)や恵美押勝の乱(764年)といった他の権力闘争と共通点があります。いずれも律令政治の枠組みの中で貴族間の権力争いが激化していたことを示しています。特に、恵美押勝の乱は橘奈良麻呂の変の延長線上にある事件といえます。
A: 主な登場人物は以下の通りです:
A: 事件の背景や経緯、主要人物の関係性が頻出ポイントです。また、藤原広嗣の乱や恵美押勝の乱と比較する記述問題や年号を問う一問一答形式もよく出題されます。
橘奈良麻呂の変は、藤原仲麻呂が権力を確立する契機となり、奈良時代の政治に大きな影響を与えた事件です。
奈良時代の律令政治は安定した仕組みの裏で、貴族間の権力争いが常に存在していました。この事件を理解することで、奈良時代の政治的動向や権力構造をより深く知ることができます。
高校日本史のテスト対策にも役立つ情報を押さえておきましょう。
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