「室町幕府の将軍はたくさんいて、いつ・誰が将軍だったかややこしい」
このように感じている人は多いのではないでしょうか。
室町幕府の将軍は足利尊氏から足利義昭まで15人いました。1338年から1573年までの240年ほどです。この間は戦乱が多く、守護大名や将軍との関係性がコロコロ変わってややこしくなります。
そこで、室町幕府の将軍を一覧で紹介し、どの将軍の在職期間中にどのような出来事があったのかをまとめました。
室町時代について、将軍を中心に知識整理をしましょう!
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室町時代は1336年から1573年まで(諸説あり)です。15人の足利将軍がおり、征夷大将軍に任命された期間でいうと1338年から1588年までです。
南北朝時代も含めて室町幕府の将軍を一覧にして、どの将軍のときに何があったかをまとめました。
以下の本を参考にしています。
室町時代について詳しく知りたい人には以下の本もおすすめです。
何代目 | 将軍 | 在職期間 | 出来事 |
1 | 足利尊氏 | 1338-1358年 | (・1336年建武式目を制定) ・1338年征夷大将軍に任命 ・1350年観応の擾乱 |
2 | 足利義詮 | 1359-1367年 | ・1366年貞治の変 |
3 | 足利義満 | 1369-1395年 | ・1369年今川貞世(了俊)と大内義弘を派遣(南朝勢力を一掃) ・1379年康暦の政変(管領・細川頼之失脚) ・1389年土岐康行の乱 ・1391年明徳の乱(山名氏清を討伐) ・1392年南北朝合一 ・1395年今川貞世(了俊)を罷免 ・1399年応永の乱(大内義弘を討伐) ・1399年ごろ金閣完成 ・1404年日明貿易(勘合貿易)の開始 |
4 | 足利義持 | 1395-1423年 | ・1411年日明貿易を中断 ・1419年応永の外寇 (李氏朝鮮による対馬への侵攻) ・1423年上杉禅秀の乱 (前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に反乱) |
5 | 足利義量 | 1423-1425年 | |
6 | 足利義教 (初め義宣) | 1429-1441年 | ・1429年義宣から義教に改名 ・1439年永享の乱 (関東管領・上杉憲実とともに鎌倉公方・足利持氏を討伐) ・1440年結城合戦 (持氏の遺児の春王丸・安王丸兄弟の反乱) ・1441年嘉吉の変 (将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される) |
7 | 足利義勝 | 1442-1443年 | ・1441年嘉吉の徳政一揆 |
8 | 足利義政 (初め義成) | 1449-1474年 | ・1455年享徳の乱 (山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏による抗争) ・1466年文正の政変 (側近・伊勢貞親らが幕府内部抗争に敗れて追放) ・1467年応仁の乱 ・1482年銀閣の建立 |
9 | 足利義尚 | 1474-1489年 | ・長享・延徳の乱 (近江守護・六角定頼討伐の遠征) ・1485年山城国一揆 |
10 | 足利義材 (のちの義尹→義稙) ※12代目と同じ人物 | 1490-1495年 | ・1493年明応の政変 (畠山義豊の討伐に出向いた際に細川政元らが将軍に蜂起、龍安寺に幽閉) |
11 | 足利義澄 (初め義高) | 1495-1508年 | ・1507年細川政元が暗殺される ・1508年近江に逃亡(将軍退位) |
10 | 足利義稙 (初め義材→義尹) ※10代目と同じ人物(再登板) | 1508-1522年 | ・1521年堺に逃亡、天皇の命令で将軍退位 |
12 | 足利義晴 | 1522-1547年 | ・1528年朽木に逃亡(朽木にて幕府継続) ・1531年大物崩れ(重臣・細川高国の戦死) |
13 | 足利義輝 (初め義藤) | 1547-1565年 | ・1565年三好軍に攻められ敗死 |
14 | 足利義栄 (初め義親) | 1568年 | ・1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛 (将軍・足利義栄は阿波に逃亡、同年死去) |
15 | 足利義昭 (初め義秋) | 1568-1573年(1588年) | ・1568年織田信長とともに入京(将軍位に就く) ・1570年志賀の陣 ・1571年比叡山焼き討ち ・1572年異見十七ヶ条(織田信長と将軍・足利義昭の対立) ・1573年足利義昭挙兵、京から追放される |
室町幕府の15人の将軍は在職中にそれぞれ何をしたのかをまとめました。
下記の本を参考にしています。
足利尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人でした。1333年、後醍醐天皇の命を受けて六波羅探題を攻めほろぼします。
同年に新田義貞が鎌倉を攻め落としたことで鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武政権がスタートします。
1335年の中先代の乱の鎮圧のために鎌倉に軍を動かし、そのまま後醍醐天皇に反乱を起こします。翌年(1336年)には建武式目を制定し、幕府政治の方針を示しました。
1338年征夷大将軍に任命され、室町幕府をおこしました。南北朝時代のはじまりです。
2代将軍足利義詮のころは南朝勢力が活発でした。九州は懐良親王が健在で、室町幕府の支配が及んでいませんでした。
1363年に大内氏、山内氏が室町幕府に帰順して政権の力は安定しはじめます。同時に南朝との講和も進みはじめました。
義満は室町幕府の力を大いに高めました。
南北朝合一を果たし、大内義弘や山名氏清などを討伐し、平清盛以来の太政大臣にも任命されます。国内では義満の命令に逆らう者が幕府内にも朝廷にも存在しなくなったほどでした。
1404年には朝貢形式で日明貿易(勘合貿易)をはじめます。
朝廷から太上天皇の称号を授けられるように働きかけますが、死後に息子の4代将軍・足利義持によって拒否されました。
父・足利義満が守護に対して支配的な姿勢を取ったのとは対照的に、融和的な姿勢で臨みます。官位も義満にくらべて低い官位までしかもらいませんでしたが、それでも幕府内で強い権力を保持しました。
有力守護と融和的な関係を築いたことで、逆に九州など地方への直接的な支配は及ばなくなりました。
また、日明貿易が朝貢形式であることに反対し、明との通交を拒絶し日明貿易を中断させます。
将軍就任後、早々に亡くなりました。大酒のみだったと言われています。
5代将軍足利義量が若くして急死したため、4代将軍・足利義持がひとまず政務を担当しました。このため将軍後継者を決めるのに手間取り、結局くじ引きで義教が次の将軍に選ばれます。
義教は当時出家して義円と名乗っていましたが還俗して将軍に就任します。
3代将軍足利義満をならって強権でもって政務にあたります。
さらに鎌倉公方の足利持氏を攻め殺し、有力守護大名の一色義貫や土岐持頼を誅殺します。
恐怖政治を行ったすえに、有力守護大名の赤松満祐に暗殺されました。
10歳で病死しました。在任期間は8か月。その間に管領・細川持之が赤松満祐を討伐し、嘉吉の徳政一揆を平成しました。
将軍の権威復活のため、守護の家督争いに頻繁に介入しました。ただ、介入が逆効果になることも多く、特に畠山義就と畠山政長の家督争いでは立場を二転三転させた結果、応仁の乱の勃発と長期化につなげてしまいました。
文化面では大きな功績をあげており、庭師・善阿弥、絵師の狩野正信、土佐光信、宗湛、また能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱えて東山文化に発展させました。
また、日明貿易を再開させています。
叔父の足利義視と将軍位を争った結果、自身が9代将軍に就任します。
ところが将軍就任後も父・義政が実権をにぎったままのため、ストレスで酒におぼれます。
六角討伐によって一時的に権力が高まりましたが、その遠征中に病死しました。
管領・細川政元らの画策で一度将軍職を追われます。その後大内義興の支援を受けて再度将軍職に就きます(鎌倉・室町・江戸の3つの幕府で唯一)。
ですが、管領・細川高国と対立して阿波に逃亡。逃亡先で病死しました。
足利義材が管領・細川政元に追われると将軍に就任。ところが足利義稙が大内義興の支援を受けて入京すると近江に逃れ、病死しました。
管領・細川高国に将軍として迎え入れられますが、1527年に細川高国が細川晴元に戦で敗れると近江に逃亡。六角氏や朝倉氏の支援を受けて同年中に入京を果たします。
ところが1528年に細川高国が失脚したため、朽木に重臣たちと逃亡。朽木で幕府としての政務を継続します。
1534年に細川晴元と和睦し再度入京。1546年に細川晴元が三好長慶に敗れると足利義晴は近江に再度逃亡。退位して京都に三度入りました。
細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれ、両者の一方と協力・敵対関係をくり返した。その争いのすえに近江朽木に逃れて当地で政務を行い、入京のチャンスをうかがいました。
1558年、三好長慶と和睦をして入京。細川氏や三好氏など畿内周辺の特定大名以外の大名とも連絡を取りあい、役職を与えて上洛を促すなどして幅広い勢力と友好関係を持とうとしました。
この画策が功を奏して将軍足利義輝の権威は高まり、脅威に感じた三好軍・松永軍によって1565年に攻め込まれて敗死しました(永禄の変)。
永禄の変から3年後の1568年、三好氏に擁立されて将軍に就任しました。ところがその数か月後に足利義昭が織田信長に擁立されて京都に侵攻し、逃走。同年に死去したとされています。
将軍在任期間は数か月という短さでした。
1568年、織田信長の擁立で将軍に就任。当初は織田信長と協力関係を築いていました。
ところが1573年、武田・朝倉・浅井・本願寺などの反織田勢力の大きさをみて織田信長と決裂。同年、織田方に攻められ京都から追放されます。
この時点で幕府政務を取れる状態ではなくなったため、1573年が室町幕府滅亡の年とされています。ただし足利義昭は征夷大将軍を解任されたわけではなく、正式な辞任は1588年でした。
ここまで紹介した室町幕府の将軍をまとめます。
室町幕府最初の将軍(室町幕府をはじめた将軍)は足利尊氏です。
なお、室町幕府のはじまりを「1336年建武式目の制定」とする説と、「1338年征夷大将軍任命」をする説があります。
室町幕府最後の将軍は15代目・足利義昭です。
織田信長に擁立されて入京し将軍になりましたが、1573年織田信長に追放されて室町幕府は事実上消滅しました。
室町幕府をもっとも繁栄させた将軍は3代目・足利義満です。
南北朝の統一、有力御家人の討伐(山名氏清、大内義弘など)、日明貿易の開始など、大きな事業をいくつも行いました。
室町幕府を衰退させていく大きな転機となった将軍は8代目・足利義政です。
東山文化と呼ばれる文化を発展させ、文化人としての功績は大きい人物です。ですが、畠山家の家督争いに中途半端に介入して長引かせるなどして応仁の乱の長期化を招き、京都の荒廃・室町幕府の権威低下・下剋上の時代到来も招いてしまいました。
将軍職辞任後も実権をはなさず、9代目・足利義尚とモメています。
室町時代の将軍で暗殺されたのは2名です。6代目・足利義教と13代目・足利義輝です。
6代目・足利義教は御家人の赤松満祐に暗殺され(嘉吉の変)、
13代目・足利義輝は松永久秀らに暗殺されました。
いかがでしょうか。
室町幕府の将軍を一覧で紹介しました。
室町幕府の将軍は全部で15名いました。1338年の初代将軍足利尊氏にはじまり、3代将軍足利義満が最盛期で、8代将軍足利義政の応仁の乱以降は将軍権力はかなり弱くなったとされています。
特に10代将軍足利義材以降、どの将軍も細川氏や三好氏の抗争で京都から逃亡したり再入京したりをくり返します。
最後の将軍足利義昭も織田信長に擁立されて将軍に就任しますが、1573年に織田信長によって追放され幕府は消滅します。
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