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奈良時代の人物と出来事のまとめ:奈良時代は誰が何をしてどんな時代だったのかを解説

奈良の大仏 高校生勉強方法
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「奈良時代には、誰が何をしたかのかが分かりにくい」

このように感じている高校生は多いのではないでしょうか。

天皇・皇族だけでも入れ替わり立ち代わり登場し、しかも藤原氏も本格的に登場するため、ややこしくなります。

そこで、奈良時代で重要な人物をまとめ、それぞれの人物が誰で・何をしたのか、そして奈良時代はどのような時代だったのかを、人物中心にまとめました。

※関連記事:奈良時代の年表

奈良時代の人物

奈良時代で重要な人物を天皇、皇族、貴族に分けました。

天皇

元明天皇

律令体制の確立に務めた、日本史上4人目の女性天皇です。

  • 708年:和同開珎発行
  • 710年:平城京遷都(→奈良時代のはじまり)
  • 711年:蓄銭叙位令

政治補佐:藤原不比等

元正天皇

律令体制の確立に務めた、日本史上5人目の女性天皇です。

  • 718年:養老律令制定
  • 720年:日本書紀完成
  • 723年:三世一身の法(→律令体制一部崩壊)

政治補佐:藤原不比等(死去)→長屋王

聖武天皇

第45代天皇。天武天皇の血統の男系天皇で、長らく天皇位につくことを嘱望されていた人物でした。実母の病気、長屋王の変、藤原四兄弟の相次ぐ病死、藤原広嗣の乱と、身近でトラブルが多発したこともあり、仏教に深く帰依して仏教の力で国を治めようと考えました。

国分寺建立の詔、東大寺盧舎那仏建立の詔、5年間で4度の遷都など仏教政策と遷都を中心に行いました。

また、国内政治の実務については橘諸兄に任せました。大仏建立や遷都の費用捻出のために墾田永年私財法を施行し、律令体制の崩壊へと進む結果にもなりました。

  • 729年:長屋王の変
  • 740年:藤原広嗣の乱
  • 741年:国分寺建立の詔
  • 743年、大仏建立の詔、墾田永年私財法
  • 740~745年:遷都をくり返す

政治補佐:長屋王→橘諸兄

孝謙天皇

第46代天皇であり、日本史上6人目の女帝です。

藤原仲麻呂を重用し、政務にあたらせました。とにかく気に入った人物を徹底的に重用するクセがある人で、橘奈良麻呂の乱を迅速に鎮圧した藤原仲麻呂に対して「恵美押勝」の名を与えて賛美しました。

「恵美押勝」とは、人民を恵む美が優れ、乱を防いで押し勝つ功績があったという意味です。

退位後も太上天皇として実権をにぎりました。

  • 752年:大仏開眼供養
  • 757年:橘奈良麻呂の乱、養老律令の施行

政治補佐:橘諸兄→藤原仲麻呂

淳仁天皇

第47代天皇。政治の実権はなく、藤原仲麻呂が後ろ盾となっていました。

その藤原仲麻呂が反乱を起こして処刑されたため淳仁天皇の政治的立場も弱くなり、孝謙太上天皇によって淡路に配流されました。

764年:恵美押勝の乱、淳仁天皇が退位させられ淡路に配流される

政治補佐:藤原仲麻呂(恵美押勝)

称徳天皇

第48代天皇で、孝謙天皇と同一人物です。重祚(ちょうそ)して再び天皇となりました。

当初は藤原仲麻呂を重用していましたが、途中から僧の道鏡を重用するようになり、危機感を覚えた藤原仲麻呂の反乱を招く結果になりました。

その道鏡が天皇位をねらいましたが、和気清麻呂の働きで防ぎました(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡のことも途中からイヤになり、左遷したうえで一切顔を合わせなくしました。

  • 765年:道鏡が太上禅師に任命される
  • 769年:宇佐八幡宮神託事件

政治補佐:道鏡→藤原百川

光仁天皇

第49代天皇。称徳天皇と道鏡によって朝廷内が大きく混乱した後に、藤原百川の後押しで天皇位に就きました。

藤原百川が藤原氏側ではない有力な皇族(井上内親王、他部親王)を排斥するのを黙認しました。

773年:井上内親王と他戸親王の追放

政治補佐:藤原百川

桓武天皇

第50代天皇で、光仁天皇の息子です。本来皇位につける血統ではなかったのですが、藤原百川の働きで皇位継承者となりました。

僧・道鏡に代表されるように、仏教勢力の政治介入が大きくなっていました。そこで奈良から離れて京都(長岡京、平安京)へと遷都しました。

794年平安京の遷都(もしくは784年長岡京への遷都)をもって、奈良時代の終わりとされます。

  • 784年:長岡京遷都
  • 785年:藤原種嗣が暗殺される
  • 794年:平安京に遷都

政治補佐:藤原種継

皇族

光明皇后

聖武天皇の后で、藤原不比等の娘です。藤原四兄弟の異母姉妹。藤原氏の権力基盤を固める重要な存在でした。

また、聖武天皇に寄り添って仏教政策に関与し、東大寺盧舎那仏建立や国分寺建立は光明皇后の発案と言われています。

聖武天皇の死後、遺品を正倉院に収めています。

長屋王

天武天皇の孫で、皇族のなかでも最も有力な立場にあった皇族です。

聖武天皇を子どものころから養育し、聖武天皇即位後も左大臣として最有力の補佐役として支えました。

ところが基王の病死に関わったという噂を流され、聖武天皇によって自害させられました(長屋王の変)。

基王(もといおう)

聖武天皇と光明子の第一皇子で、生後間もなく次の天皇に指名されました(皇太子に指名)。

聖武天皇や藤原家の貴族から高い期待を集めましたが、生まれてから1年もたたないうちに亡くなりました。

この結果、政治権力が藤原氏から離れていく可能性が高くなり、危機感を抱いた藤原氏によって「長屋王が基王を呪い殺させた。聖武天皇に対して反乱を起こすつもり」とデマが流されました。

このデマを信じた聖武天皇によって長屋王は自害させられました(長屋王の変)。

井上内親王

聖武天皇の皇女で、他戸親王の母。血統的に他戸親王が光仁天皇の次の天皇になることが決まっていましたが、藤原百川の画策で反乱者にされ庶民に落とされます。

のちに他戸親王とともに亡くなりました。

他戸親王(おさべしんのう)

天武天皇の直系男子で、光仁天皇の次の天皇に指名されていました。ところが藤原氏側の皇太子ではなかったため、藤原百川の画策で廃太子されて母・井上内親王とともに庶民に落とされます。

そののち、井上内親王と同時期に不審死をとげています。

早良親王

桓武天皇の弟。長岡京造営中に造営責任者の藤原種継が暗殺されるという事件が起き、その首謀者のひとりとして幽閉。冤罪を訴えたすえに、亡くなりました。

この事件が桓武天皇にとって精神的に痛手になっていたようで、のちに仏教に強く頼っていくきっかけになったと言われています。

貴族

藤原不比等

藤原(中臣)鎌足の息子で、持統天皇から元正天皇まで4代の天皇に使えて政務の中心にいました。

養老律令の制定や日本書紀の編纂にもかかわり、のちの藤原氏の繁栄をきずきました。

藤原武智麻呂

藤原不比等の息子で、藤原南家の始祖です。

長屋王の変では、長屋王を自害に追い込む主導的な役割を果たしたとされています。

異母妹である光明皇后とともに藤原家の繁栄をきずきはじめたところで、天然痘によって亡くなりました。

藤原房前

藤原不比等の息子で、藤原北家の始祖です。

政治的手腕に優れ、長屋王とも良好な関係をきずいていたと言われています。

長屋王の変にはかかわっていないという説もあります。

天然痘で亡くなりました。

藤原宇合

藤原不比等の息子で、藤原式家の始祖です。

朝廷では軍事面を担当することが多く、長屋王の変でも兵を出すなど主導的な役割を果たしています。

天然痘で亡くなりました。

藤原麻呂

藤原不比等の息子で、藤原京家の始祖です。

蝦夷の征討に主導的に参加しています。帰京後に天然痘にかかり亡くなりました。

藤原広嗣

藤原宇合の子で、藤原四兄弟死後の有力な藤原氏でした。

橘諸兄が権力を握っていたため、不満をつのらせて740年に太宰府で反乱を起こして処刑されます。

藤原仲麻呂

藤原武智麻呂の子で、光明皇后の甥。

光明皇后から大きく期待をかけられ、橘諸兄政権下で着実に政治的立場を高めます。

橘奈良麻呂の乱では迅速に対処し、上位にいた藤原豊成も左遷に追い込み、政治的立場を大きく上げました。これにより、孝謙天皇の時代には皇族以外ではじめての太政大臣に任命されます。

また、乱鎮圧の功績で「恵美押勝」の名をたまわりましたが、孝謙太上天皇の寵愛が道鏡に移ると反乱を起こし敗死します(恵美押勝の乱)。

橘諸兄

もと皇族で、光明皇后の異母兄です。この関係性から政界でも重鎮で、左大臣として聖武天皇から孝謙天皇の初期まで政務の中心にいました。

藤原四兄弟の死後は聖武天皇政権下で藤原氏をしのぐ権勢をほこり、740年の藤原広嗣の乱も鎮圧。その後も聖武天皇の遷都や大仏建立の実務をささえました。

孝謙天皇から次第にうとまれ、大仏開眼には参加していないことが分かっています。

死後、息子の橘奈良麻呂が藤原氏に対して反乱を起こしています。

橘奈良麻呂

橘諸兄の子です。

聖武天皇から孝謙天皇の時代に政治的立場を高めましたが、藤原仲麻呂の専横に不満をいだき、反乱を起こします(橘奈良麻呂の乱)。拷問の末に死去しました。

吉備真備

717年に遣唐使に留学生として随行し、入唐。735年に玄昉らと帰国、橘諸兄に重用されて政治の中心に関わります。

橘諸兄に代わって藤原仲麻呂が政権をにぎると地方に左遷され、さらに57歳という高齢で遣唐使として二度目の入唐を経験しました。帰国後も長く中央政局には復帰できず、太宰府で任務につきました。

ところが藤原仲麻呂が乱を起こして敗死すると、称徳天皇の時代に中央に呼び戻されて右大臣に任命。結局、光仁天皇即位後も在職を懇願されて1年間は政局にとどまりました。

和気清麻呂

宇佐八幡神託事件において道鏡の希望とは異なる報告を朝廷にしたため、道鏡の命で左遷、暗殺未遂も行われました。

その後道鏡の左遷と称徳天皇の死去によって中央政界に復帰します。

練達の実務官僚として重用され、桓武天皇の時代には水害を理由に長岡京から平安京への遷都を提案し遷都を成功させています。

大伴旅人

飛鳥時代から奈良時代前期にかけて活躍した貴族です。九州の隼人の反乱鎮圧に功がありました。

長屋王の変後には臣下として最高位になりますが、間もなく病死しました。

大伴家持

大伴旅人の子で、武人であり歌人です。

万葉集の編纂に関わり、奈良時代を代表する歌人でありながら九州や東北の征討にも中心的に関わりました。

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鑑真

唐の高僧で、聖武天皇の招来におうじて渡日を決意。周囲の反対や暴風雨もあり5回11年の歳月をかけて来日しました。

その間に両目を失明しています。

淳仁天皇の時代に唐招提寺を建立し、天台宗の日本に広めました。

玄昉

717年に遣唐使の学問僧として随行して入唐。735年に帰国し、聖武天皇や橘諸兄の信任を得て僧正に就任。僧の立場で政治に大きく参加しました。

橘諸兄に代わって藤原仲麻呂が政権をにぎると筑紫に左遷されました。

行基

中国系の帰化人あるいは百済からの渡来人の末裔と言われており、墾田活動や架橋事業、寺院建立などの事業をとおして民衆の救済活動を積極的に行いました。

寺の外での活動を禁止する僧尼令に違反したとして処分を受けた唯一の僧でもあります。

その建設技術や民衆からの圧倒的な支持を利用するため、聖武天皇から東大寺大仏建立の責任者に任命されました。大仏建立の功績を認められて朝廷より仏教界の最高位である「大僧正」に任命されています。

道鏡

禅に通じた高僧として評価されていました。

孝謙太上天皇が病に伏したときに看病し、信用を得ます。政界にも進出し、弟や弟子たちが大勢高官にのぼったため朝廷内、特に藤原氏から強い反感を持たれます。

特に時の最高権力者だった藤原仲麻呂から淳仁天皇を通じて孝謙太上天皇に「道鏡の排除」を要請されました。孝謙太上天皇はこの依頼に激怒し、藤原仲麻呂の反乱につながりました。

その後、重祚した称徳天皇の時代に天皇位をのぞみ、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇位に就けよ」という神託を得たと報告します。ところが宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂が「偽の報告である」としたため、逆に称徳天皇の怒りをかって左遷されました。

この一件が決定打となり、のちに桓武天皇は奈良仏教勢力の政治介入を避けるために長岡京や平安京に遷都しています。

奈良時代の出来事

つづいて、奈良時代の出来事をまとめました。

奈良時代の乱や変

奈良時代は乱や変があいつぎました。

反乱は時の権力者に対して起こされており、「天皇以外の権力者による権力争い」が乱発生の大きな要因でした。

720年隼人の反乱

九州で起きた大和政権に対する異民族の大規模な反乱です。大伴旅人が鎮圧に関わりました。この反乱を鎮めたことで大和政権は九州を支配するに至りました。

729年長屋王の変

聖武天皇と光明皇后の間に生まれた基王を呪詛し、聖武天皇に反乱をくわだてたとして長屋王が自害に追い込まれた騒動です。藤原四兄弟によるくわだてとされています。

740年藤原広嗣の乱

橘諸兄政権(橘諸兄、玄昉、吉備真備)に対する政権争いのすえに起こった反乱。藤原広嗣が敗死。これにより、橘政権の長命化と藤原氏の政権奪取が遅れました。

757年橘奈良麻呂の乱

橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が藤原仲麻呂に対して起こした反乱。孝謙天皇のころに政治の実権が橘諸兄から藤原仲麻呂に移ったことへの反発から発生しました。このころ、藤原四兄弟の病死以来約20年ぶりに藤原氏が政治の中枢に返り咲いていました。

奈良時代の法令一覧

奈良時代には律令制度を整えるためや、朝廷の収入アップのためなどでさまざまな法令が出されました。

一覧にしています。

年代法令内容
711年蓄銭叙位令通貨の流通を目的とした法令で、
通貨の所有額に応じて貴族が位階をもらえる
718年養老律令の制定
※施行は757年
大宝律令の改定。藤原不比等が編纂。
722年百万町歩開墾計画全国で百万町歩の土地を新たに開墾しようという計画
723年三世一身の法自身が新たに開墾した土地は孫まで3代にわたって私有して良い
741年国分寺建立の詔各国に国分寺、国分尼寺の建立を進める
743年大仏建立の詔東大寺に廬舎那仏(大仏)建立を進める
743年墾田永年私財法自身が新たに開墾した土地は永久に私有して良い
792年健児の制導入東北と九州をのぞいて軍団を廃止

奈良時代がどんな時代だったのかを人物を中心に解説

奈良時代は大きく3つの時期に分けられます。

  • 元明天皇~聖武天皇の時期
  • 孝謙天皇/称徳天皇の時期
  • 光仁天皇・桓武天皇の時期

元明天皇~聖武天皇:律令制度確立と天武天皇系の時代

元明天皇から聖武天皇のころは、律令制度確立に向けた時期です。大宝律令が制定され(701年)、律令制定や改定に関わった皇族・貴族が政治の中心を担っていました。

天皇が土地と人民を所有する制度ですが、三世一身の法や墾田永年私財法でその前提が一部崩れました。

また、この時代は天武天皇からつづく、天武天皇の血統が天皇位に就く時代でした。その事業の中心を担ったのが持統天皇や光明皇后・藤原氏の組み合わせと言われています。

孝謙天皇~称徳天皇:寵愛する臣下をとっかえひっかえ

2つ目の時期は孝謙天皇(称徳天皇)を中心としたころです。

孝謙天皇は当初、藤原仲麻呂を重用していました。橘奈良麻呂の乱を迅速に鎮圧した功から恵美押勝の名を与えるなど、重視していました。

ところが道鏡を重視するようになると、僧としてのそれまでの分限を越えた権力を道鏡に与えるようになります。

この結果、藤原仲麻呂は反乱を起こし、藤原氏はしばらく道鏡の下風に立たされることになりました。

光仁天皇・桓武天皇:天智天皇系に変更

称徳天皇死去後、藤原百川の後押しで光仁天皇が即位します。光仁天皇は天智天皇系であり、それまでの天武天皇系とは一線を画した存在でした。

藤原氏との再タッグ、天皇の血統変更は桓武天皇にも影響します。桓武天皇は藤原百川死去後、藤原種継を重用し長岡京の遷都を進めます。

都はそれまで奈良に置かれており、平城京も奈良でした。ところが長岡京は京都にあり、大きな引っ越しになります。

これは道鏡や玄昉など奈良の仏教勢力による政治介入をおさえ、天智天皇系に代わって新たに国造りをするという意志の表れでした。平安京遷都後、桓武天皇は真言宗と天台宗を保護し仏教界で重要な位置に置くようにしました。

おすすめの歴史の本や参考書

歴史に関するおすすめの本や参考書を紹介します。高校生があまり時間をかけず、読みやすいものをピックアップしています。

『面白すぎる!日本史の授業: 超現代語訳×最新歴史研究で学びなおす』

イラストや軽妙な語り口で、日本史の流れを取っつきやすく説明してくれます。残念な生き物事典のような、軽いノリだけど内容はちゃんとしている本です。

電車のなかや休けい時間にチョロチョロ読み進めたら数日で読みおえる分量です。


面白すぎる!日本史の授業: 超現代語訳×最新歴史研究で学びなおす

出版社:あさ出版

『ねこねこ日本史 コミック』

こちらは日本史上の人物をネコにしたマンガです。

内容はちゃんとしているのですが、ネコなので可愛いです。何度か読んでいるうちに歴史上の人物にくわしくなります。ねこねこ日本史のアニメ版も豪華声優陣で、見ていて楽しいです。


ねこねこ日本史 コミック 1-14巻セット (実業之日本社)

出版社:実業之日本社

まとめ

いかがでしょうか。

高校生向けに奈良時代の人物と出来事をまとめて紹介しました。

奈良時代は天皇・皇族・貴族が権力争いをしながら政務を行っていました。政治の中心人物が藤原氏→橘氏→藤原氏→道鏡→藤原氏とめまぐるしく変化するので、いつ・どの天皇・出来事は何かを順に勉強すると覚えやすくなります。

日本史探求のテストや大学入試にご活用ください。

別記事で紹介している奈良時代の年表とセットでご覧いただくと、より分かりやすいかと思います。

プロフィール
satoru
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福地 暁です。
個別指導の塾を経営しています。

これまで3000組以上のご家庭を担当させていただきました。
中学受験、高校受験、大学受験、英検・TOEIC対策、中学生・高校生の定期テスト対策など、さまざまな学習支援をしています。

みなさまの学びにプラスになる情報をお伝えしていきます!
よろしくお願いします。

1男1女の父。
どうやら娘には「甘いパパ」と思われているようで、
アイスやジュースをねだるときは必ずパパのところにきます。

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