「室町幕府の将軍はたくさんいて、いつ・誰が将軍だったかややこしい」
このように感じている人は多いのではないでしょうか。
室町幕府の将軍は足利尊氏から足利義昭まで15人いました。1338年から1573年までの240年ほどです。この間は戦乱が多く、守護大名や将軍との関係性がコロコロ変わってややこしくなります。
そこで、室町幕府の将軍を一覧で紹介し、どの将軍の在職期間中にどのような出来事があったのかをまとめました。
室町時代について、将軍を中心に知識整理をしましょう!
なお、以下の記事で室町時代の年表を紹介しています。年表を見ながら将軍や出来事を勉強すると流れを理解しやすくなります。
※関連記事:室町時代の年表
室町幕府の将軍とは?高校生向けにわかりやすく解説
室町幕府の将軍とは、室町時代(1336年~1573年)に日本を支配した武家政権「室町幕府」の最高権力者のことです。鎌倉幕府と同様に、武士による政権を率いたトップの役職ですが、室町幕府では将軍の役割や地位が時代とともに変化しました。
以下に詳しく解説します。
室町幕府の成立と将軍の役割
室町幕府は、初代将軍の足利尊氏(あしかが たかうじ)が1336年に建てました。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼした後、京都に新たな武家政権(室町幕府)を設立し、朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。
室町将軍の役割
- 軍事の指揮: 武士団を統率し、国内の戦乱を治める。
- 政治の運営: 幕府を中心とした政治を行い、守護大名(各地の武士のリーダー)を統制する。
- 外交の管理: 中国(明)との日明貿易など、外交や貿易も指揮。
将軍の権力が強かった時代
室町時代を通じて、将軍の権力は大きく揺れ動いていました。特に権力が強かったのは、3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)の時代です。
- 足利義満(1358年~1408年)は、京都の北山に鹿苑寺金閣寺を建て、北山文化を発展させました。
- 南北朝時代にあった2つの朝廷(南朝と北朝)を統一し、国内の権力を安定させました。
- 貿易を推進し、明との日明貿易を行って幕府の財政を強化しました。
将軍の権力が弱まった時代
しかし、時代が進むと将軍の権力は弱まり、守護大名や有力な家臣が力を持つようになります。特に、8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)の時代は、政治的混乱が深刻化しました。
- 応仁の乱(1467年~1477年)が京都で発生し、全国に戦乱が広がりました。
- 足利義政は文化的には東山文化(慈照寺銀閣の建設など)を発展させましたが、政治的な実権を失い、将軍は形式的な存在になってしまいました。
室町幕府の将軍と管領・守護大名の関係
室町幕府では、将軍の政治を補佐する役職として管領(かんれい)が置かれました。管領は将軍の右腕として政治の実務を担います。
- 管領は有力な守護大名(細川氏、斯波氏、畠山氏など)が就任し、幕府の運営に大きな影響を与えました。三名による交替制だったので、三管領と呼ばれます
- 守護大名が自らの領地で独自の権力を振るうようになり、将軍の命令が全国に及ばなくなることも多くなりました。
将軍制度が室町時代に与えた影響
武家政権の確立
室町幕府は、鎌倉幕府と同様に、武士が政治を行う武家政権として日本を支配しました。しかし、室町時代には京都を拠点にしたことで、朝廷や公家文化との融合が進み、独自の文化が発展しました。
将軍が象徴的存在へ
特に応仁の乱以降、将軍の権力は形式的なものとなり、守護大名やその後の戦国大名が各地で実権を握るようになります。
最終的に、15代将軍足利義昭が1573年に織田信長によって追放され、室町幕府は滅亡しました。
室町幕府の将軍一覧(年表)
室町時代は1336年から1573年まで(諸説あり)です。15人の足利将軍がおり、征夷大将軍に任命された期間でいうと1338年から1588年までです。
南北朝時代も含めて室町幕府の将軍を一覧にして、どの将軍のときに何があったかをまとめました。
以下の本を参考にしています。
一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた
室町時代について詳しく知りたい人には以下の本もおすすめです。
室町幕府と地方の社会〈シリーズ日本中世史 3〉 (岩波新書)
何代目 | 将軍 | 在職期間 | 出来事 |
1 | 足利尊氏 | 1338-1358年 | (・1336年建武式目を制定) ・1338年征夷大将軍に任命 ・1350年観応の擾乱 |
2 | 足利義詮 | 1359-1367年 | ・1366年貞治の変 |
3 | 足利義満 | 1369-1395年 | ・1369年今川貞世(了俊)と大内義弘を派遣(南朝勢力を一掃) ・1379年康暦の政変(管領・細川頼之失脚) ・1389年土岐康行の乱 ・1391年明徳の乱(山名氏清を討伐) ・1392年南北朝合一 ・1395年今川貞世(了俊)を罷免 ・1399年応永の乱(大内義弘を討伐) ・1399年ごろ金閣完成 ・1404年日明貿易(勘合貿易)の開始 |
4 | 足利義持 | 1395-1423年 | ・1411年日明貿易を中断 ・1419年応永の外寇 (李氏朝鮮による対馬への侵攻) ・1423年上杉禅秀の乱 (前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に反乱) |
5 | 足利義量 | 1423-1425年 | |
6 | 足利義教 (初め義宣) | 1429-1441年 | ・1429年義宣から義教に改名 ・1439年永享の乱 (関東管領・上杉憲実とともに鎌倉公方・足利持氏を討伐) ・1440年結城合戦 (持氏の遺児の春王丸・安王丸兄弟の反乱) ・1441年嘉吉の変 (将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される) |
7 | 足利義勝 | 1442-1443年 | ・1441年嘉吉の徳政一揆 |
8 | 足利義政 (初め義成) | 1449-1474年 | ・1455年享徳の乱 (山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏による抗争) ・1466年文正の政変 (側近・伊勢貞親らが幕府内部抗争に敗れて追放) ・1467年応仁の乱 ・1482年銀閣の建立 |
9 | 足利義尚 | 1474-1489年 | ・長享・延徳の乱 (近江守護・六角定頼討伐の遠征) ・1485年山城国一揆 |
10 | 足利義材 (のちの義尹→義稙) ※12代目と同じ人物 | 1490-1495年 | ・1493年明応の政変 (畠山義豊の討伐に出向いた際に細川政元らが将軍に蜂起、龍安寺に幽閉) |
11 | 足利義澄 (初め義高) | 1495-1508年 | ・1507年細川政元が暗殺される ・1508年近江に逃亡(将軍退位) |
10 | 足利義稙 (初め義材→義尹) ※10代目と同じ人物(再登板) | 1508-1522年 | ・1521年堺に逃亡、天皇の命令で将軍退位 |
12 | 足利義晴 | 1522-1547年 | ・1528年朽木に逃亡(朽木にて幕府継続) ・1531年大物崩れ(重臣・細川高国の戦死) |
13 | 足利義輝 (初め義藤) | 1547-1565年 | ・1565年三好軍に攻められ敗死 |
14 | 足利義栄 (初め義親) | 1568年 | ・1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛 (将軍・足利義栄は阿波に逃亡、同年死去) |
15 | 足利義昭 (初め義秋) | 1568-1573年(1588年) | ・1568年織田信長とともに入京(将軍位に就く) ・1570年志賀の陣 ・1571年比叡山焼き討ち ・1572年異見十七ヶ条(織田信長と将軍・足利義昭の対立) ・1573年足利義昭挙兵、京から追放される |
室町幕府の歴代将軍の役割やしたこと
室町幕府の15人の将軍は在職中にそれぞれ何をしたのかをまとめました。
下記の本を参考にしています。
一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた
初代将軍・足利尊氏の役割やしたこと
足利尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人でした。1333年、後醍醐天皇の命を受けて六波羅探題を攻めほろぼします。
同年に新田義貞が鎌倉を攻め落としたことで鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武政権がスタートします。
1335年の中先代の乱の鎮圧のために鎌倉に軍を動かし、そのまま後醍醐天皇に反乱を起こします。翌年(1336年)には建武式目を制定し、幕府政治の方針を示しました。
1338年征夷大将軍に任命され、室町幕府をおこしました。南北朝時代のはじまりです。
2代将軍・足利義詮の役割やしたこと
2代将軍足利義詮のころは南朝勢力が活発でした。九州は懐良親王が健在で、室町幕府の支配が及んでいませんでした。
1363年に大内氏、山内氏が室町幕府に帰順して政権の力は安定しはじめます。同時に南朝との講和も進みはじめました。
3代将軍・足利義満の役割やしたこと
義満は室町幕府の力を大いに高めました。
南北朝合一を果たし、大内義弘や山名氏清などを討伐し、平清盛以来の太政大臣にも任命されます。国内では義満の命令に逆らう者が幕府内にも朝廷にも存在しなくなったほどでした。
1404年には朝貢形式で日明貿易(勘合貿易)をはじめます。
朝廷から太上天皇の称号を授けられるように働きかけますが、死後に息子の4代将軍・足利義持によって拒否されました。
4代将軍・足利義持の役割やしたこと
父・足利義満が守護に対して支配的な姿勢を取ったのとは対照的に、融和的な姿勢で臨みます。官位も義満にくらべて低い官位までしかもらいませんでしたが、それでも幕府内で強い権力を保持しました。
有力守護と融和的な関係を築いたことで、逆に九州など地方への直接的な支配は及ばなくなりました。
また、日明貿易が朝貢形式であることに反対し、明との通交を拒絶し日明貿易を中断させます。
5代将軍・足利義量の役割やしたこと
将軍就任後、早々に亡くなりました。大酒のみだったと言われています。
6代将軍・足利義教の役割やしたこと
5代将軍足利義量が若くして急死したため、4代将軍・足利義持がひとまず政務を担当しました。このため将軍後継者を決めるのに手間取り、結局くじ引きで義教が次の将軍に選ばれます。
義教は当時出家して義円と名乗っていましたが還俗して将軍に就任します。
3代将軍足利義満をならって強権でもって政務にあたります。
さらに鎌倉公方の足利持氏を攻め殺し、有力守護大名の一色義貫や土岐持頼を誅殺します。
恐怖政治を行ったすえに、有力守護大名の赤松満祐に暗殺されました。
7代将軍・足利義勝の役割やしたこと
10歳で病死しました。在任期間は8か月。その間に管領・細川持之が赤松満祐を討伐し、嘉吉の徳政一揆を平成しました。
8代将軍・足利義政の役割やしたこと
将軍の権威復活のため、守護の家督争いに頻繁に介入しました。ただ、介入が逆効果になることも多く、特に畠山義就と畠山政長の家督争いでは立場を二転三転させた結果、応仁の乱の勃発と長期化につなげてしまいました。
文化面では大きな功績をあげており、庭師・善阿弥、絵師の狩野正信、土佐光信、宗湛、また能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱えて東山文化に発展させました。
また、日明貿易を再開させています。
9代将軍・足利義尚の役割やしたこと
叔父の足利義視と将軍位を争った結果、自身が9代将軍に就任します。
ところが将軍就任後も父・義政が実権をにぎったままのため、ストレスで酒におぼれます。
六角討伐によって一時的に権力が高まりましたが、その遠征中に病死しました。
10代将軍・足利義材(義稙)の役割やしたこと
管領・細川政元らの画策で一度将軍職を追われます。その後大内義興の支援を受けて再度将軍職に就きます(鎌倉・室町・江戸の3つの幕府で唯一)。
ですが、管領・細川高国と対立して阿波に逃亡。逃亡先で病死しました。
11代将軍・足利義澄(義高)の役割やしたこと
足利義材が管領・細川政元に追われると将軍に就任。ところが足利義稙が大内義興の支援を受けて入京すると近江に逃れ、病死しました。
12代将軍・足利義晴の役割やしたこと
管領・細川高国に将軍として迎え入れられますが、1527年に細川高国が細川晴元に戦で敗れると近江に逃亡。六角氏や朝倉氏の支援を受けて同年中に入京を果たします。
ところが1528年に細川高国が失脚したため、朽木に重臣たちと逃亡。朽木で幕府としての政務を継続します。
1534年に細川晴元と和睦し再度入京。1546年に細川晴元が三好長慶に敗れると足利義晴は近江に再度逃亡。退位して京都に三度入りました。
13代将軍・足利義輝の役割やしたこと
細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれ、両者の一方と協力・敵対関係をくり返した。その争いのすえに近江朽木に逃れて当地で政務を行い、入京のチャンスをうかがいました。
1558年、三好長慶と和睦をして入京。細川氏や三好氏など畿内周辺の特定大名以外の大名とも連絡を取りあい、役職を与えて上洛を促すなどして幅広い勢力と友好関係を持とうとしました。
この画策が功を奏して将軍足利義輝の権威は高まり、脅威に感じた三好軍・松永軍によって1565年に攻め込まれて敗死しました(永禄の変)。
14代将軍・足利義栄の役割やしたこと
永禄の変から3年後の1568年、三好氏に擁立されて将軍に就任しました。ところがその数か月後に足利義昭が織田信長に擁立されて京都に侵攻し、逃走。同年に死去したとされています。
将軍在任期間は数か月という短さでした。
15代将軍・足利義昭の役割やしたこと
1568年、織田信長の擁立で将軍に就任。当初は織田信長と協力関係を築いていました。
ところが1573年、武田・朝倉・浅井・本願寺などの反織田勢力の大きさをみて織田信長と決裂。同年、織田方に攻められ京都から追放されます。
この時点で幕府政務を取れる状態ではなくなったため、1573年が室町幕府滅亡の年とされています。ただし足利義昭は征夷大将軍を解任されたわけではなく、正式な辞任は1588年でした。
室町幕府の将軍まとめ
ここまで紹介した室町幕府の将軍をまとめます。
室町幕府最初の将軍
室町幕府最初の将軍(室町幕府をはじめた将軍)は足利尊氏です。
なお、室町幕府のはじまりを「1336年建武式目の制定」とする説と、「1338年征夷大将軍任命」をする説があります。
室町幕府最後の将軍
室町幕府最後の将軍は15代目・足利義昭です。
織田信長に擁立されて入京し将軍になりましたが、1573年織田信長に追放されて室町幕府は事実上消滅しました。
室町幕府を栄えさせた将軍
室町幕府をもっとも繁栄させた将軍は3代目・足利義満です。
南北朝の統一、有力御家人の討伐(山名氏清、大内義弘など)、日明貿易の開始など、大きな事業をいくつも行いました。
室町幕府を衰退させた将軍
室町幕府を衰退させていく大きな転機となった将軍は8代目・足利義政です。
東山文化と呼ばれる文化を発展させ、文化人としての功績は大きい人物です。ですが、畠山家の家督争いに中途半端に介入して長引かせるなどして応仁の乱の長期化を招き、京都の荒廃・室町幕府の権威低下・下剋上の時代到来も招いてしまいました。
将軍職辞任後も実権をはなさず、9代目・足利義尚とモメています。
暗殺された室町幕府の将軍
室町時代の将軍で暗殺されたのは2名です。6代目・足利義教と13代目・足利義輝です。
6代目・足利義教は御家人の赤松満祐に暗殺され(嘉吉の変)、
13代目・足利義輝は松永久秀らに暗殺されました。
室町将軍の役割と権限【鎌倉幕府との違い】
幕府内での将軍の立場と権限の違い
鎌倉幕府の将軍の役割
鎌倉幕府(1185年〜1333年)は、武家政権として源頼朝が創設しましたが、頼朝の死後は、実質的な権力が執権(しっけん)を務める北条氏に移りました。
将軍の役割は名目的な存在に過ぎず、政治の実権をほぼ握っていませんでした。
なお、鎌倉幕府の将軍については以下の記事でくわしく解説しています。
鎌倉幕府の将軍9名をわかりやすく解説!【高校生の日本史テスト対策】
鎌倉幕府における将軍の特徴
- 役割:形式的な権威の象徴として朝廷との交渉や儀式に関わる。
- 権限:執権が実権を握り、将軍は政治の決定にはほとんど関与しない。
- 実権者:執権(北条氏)が幕府を主導。
室町幕府の将軍の役割
一方、室町幕府(1336年〜1573年)では、初代将軍足利尊氏が建武の新政を経て幕府を開いた後、将軍の権力は大きなものになりました。
室町時代の将軍は、武士階級の統治者として、全国の大名や守護を統制する役割を担いました。
室町幕府における将軍の特徴
- 役割:全国の武士を支配し、政治・軍事・裁判を統括する。
- 権限:強い軍事力を持ち、外交や朝廷との関係も主導。
- 実権者:初期の足利将軍家(足利尊氏・義満など)が強い権力を持つが、後期になると守護大名との関係が複雑化し、権力は弱体化。
将軍と管領・守護大名との関係の違い
鎌倉幕府の将軍と守護・地頭の関係
鎌倉幕府では、地方の支配は主に守護と地頭が担いました。しかし、これらの役職者は基本的に執権に従属していました。
- 守護:各国の治安維持や御家人の監視を担当。
- 地頭:荘園や公領(天皇の土地)の管理や税の徴収を行う。
- 将軍の立場:これらの武士たちを直接支配するのではなく、執権がその調整役を務めた。
なお、鎌倉幕府の執権については以下の記事でくわしく解説しています。
鎌倉幕府の執権とは?歴代執権一覧と役割、北条氏の権力をわかりやすく解説【高校生テスト対策】
室町幕府の将軍と管領・守護大名の関係
室町幕府では、将軍を支えるために重要な役職として管領(かんれい)が設置されました。また、各国を支配する守護大名も登場します。
管領の役割
- 役割:幕府の最高職であり、将軍を補佐して政治を行う。いわば「副将軍」のような存在。
- 代表的な家系:細川氏、斯波(しば)氏、畠山氏が交代で就任。
守護大名の立場
- 役割:守護から成長した武士が、一国の実質的な支配者として勢力を拡大。
- 将軍との関係:将軍に従うが、室町幕府後期には守護大名が独立性を強める。
室町時代の将軍と守護大名の力関係の変化
- 前期(足利義満の時代)
足利義満は強力な中央集権体制を築き、守護大名を抑えて幕府の権威を高めました。
義満は中国の明との外交(勘合貿易)も成功させ、経済力と権力を一手に掌握しました。 - 後期(戦国時代への移行)
将軍の権力が弱体化し、各地の守護大名が力を増大。守護大名が戦国大名へと変化し、将軍への従属関係が崩れました。
違いまとめ
項目 | 鎌倉幕府 | 室町幕府 |
将軍の役割 | 名目的な存在 | 全国の武士を支配 |
実権者 | 執権(北条氏) | 初期は将軍、後期は守護大名 |
地方支配 | 守護・地頭による間接統治 | 守護大名が直接支配 |
管領の存在 | なし | 管領が将軍を補佐 |
室町幕府の将軍についてテストによく出る問題例(一問一答と記述問題)
問題例1
室町幕府の初代将軍は誰か。
解答: 足利尊氏
問題例2
足利義満が行った重要な政策を2つ説明しなさい。
解答:
- 南北朝の合一による政権の安定化。
- 日明貿易(勘合貿易)を行い、経済を活性化。
問題例3
室町幕府の3代将軍・足利義満が京都に建立した建築物の名称とその文化的意義を説明しなさい。
解答:
- 名称:鹿苑寺金閣寺
- 意義:北山文化を代表する建築物で、公家文化と武家文化の融合を象徴している。
問題例4
応仁の乱が発生したときの将軍は誰か。また、応仁の乱が室町幕府に与えた影響を説明しなさい。
解答:
- 将軍:足利義政
- 影響:応仁の乱によって京都が戦乱で荒廃し、室町幕府の権威と将軍の実権が大幅に低下した。
問題例5
8代将軍・足利義政の時代に発展した文化を何文化というか。また、その文化を象徴する建築物を1つ挙げなさい。
解答:
- 文化:東山文化
- 建築物:慈照寺銀閣
問題例6
室町幕府の将軍の権力を補佐し、実務を担当した役職を何というか。また、その役職を担っていた守護は誰か。
解答:
- 役職:管領
- 守護:細川・畠山・斯波
問題例7
足利義満が行った日明貿易の特徴を説明し、貿易に使用された証明書の名称を答えなさい。
解答:
- 特徴:明(中国)との公式な貿易で、日本が正式な冊封国として認められることで経済的利益を得た。
- 証明書:勘合符
問題例8
室町幕府最後の将軍は誰か。また、その将軍が失脚した理由を説明しなさい。
解答:
- 将軍:足利義昭
- 理由:織田信長が室町幕府を滅ぼし、義昭を京都から追放したため。
まとめ
いかがでしょうか。
室町幕府の将軍を一覧で紹介しました。
室町幕府の将軍は全部で15名いました。1338年の初代将軍足利尊氏にはじまり、3代将軍足利義満が最盛期で、8代将軍足利義政の応仁の乱以降は将軍権力はかなり弱くなったとされています。
特に10代将軍足利義材以降、どの将軍も細川氏や三好氏の抗争で京都から逃亡したり再入京したりをくり返します。
最後の将軍足利義昭も織田信長に擁立されて将軍に就任しますが、1573年に織田信長によって追放され幕府は消滅します。
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