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鎌倉幕府の将軍9名をわかりやすく解説!【高校生の日本史テスト対策】

源頼朝像 高校生勉強方法
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鎌倉将軍は全部で9人います。源頼朝・源頼家・源実朝・藤原頼経・藤原頼嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王です。

源氏将軍、摂家将軍、皇族将軍に分かれており、室町幕府や江戸幕府にくらべて分かりにくいです。こうした複雑な状況になった理由は、鎌倉幕府の内部事情と朝廷の内部事情が原因でした。

そこで、この記事では鎌倉幕府の将軍を一覧で紹介し、どの将軍のときに何があったのかと、各将軍の遍歴について紹介します。

※関連記事:鎌倉時代の年表

鎌倉幕府はいつからいつまでか

鎌倉幕府は1185年から1333年までの約150年間です。

1185年:源頼朝が全国の守護と地頭の任命権と年貢徴収権を朝廷から認められる

1333年:新田義貞が鎌倉を攻め落とす

鎌倉幕府成立が1192年じゃない理由

かつては、鎌倉幕府の成立は1192年で習っていました。現在は1185年です(帝国書院など)。

変わった理由は「征夷大将軍の位置づけ」です。

以前だと、征夷大将軍に任命される=幕府を開くという位置づけでした。現在は、「征夷大将軍かどうか」よりも「実質的に幕府としての機能を果たしているかどうか」が重要とされています。

前述のように1185年に源頼朝が全国の守護・地頭の任命権および年貢徴収権を認められました。これで源頼朝が全国の統治権を獲得したと解釈され、1185年が実質的に幕府としての機能スタートとされています。

鎌倉幕府の将軍とは?

鎌倉幕府は、1185年に源頼朝が征夷大将軍に任命されて成立しました。将軍は、幕府という武家政権の中で最高権力を持つ存在として、鎌倉時代を通して非常に重要な役割を果たしました。

将軍の主な役割は、軍事面での指導と政治的なトップとしての象徴的な立場を持つことです。

鎌倉幕府における将軍の役割と権限

鎌倉幕府における将軍の役割や権限をまとめると、以下のようになります。

軍事的なリーダー

鎌倉幕府の将軍は、戦国時代の武士政権と異なり、軍事的な指導者として最も重要な役割を担いました。源頼朝をはじめ、将軍は国内の軍事作戦や戦争を指導する役割を持ち、国内外の脅威に対応しました。

将軍は、御家人(幕府の家臣)を指揮して、外敵に立ち向かう責任がありました。

政治的なトップとしての象徴的な役割

初代将軍の源頼朝は、政治面でも最高権威を持つ人物でした。頼朝は幕府の行政を取り仕切り、国の統治を行う役割を担っていました。

源頼朝

しかし、将軍の権限は、実際には次第に制限されていきます。頼朝の死後、幕府内部での権力争いにより、実際の政治や軍事の権限は次第に他の武士層、特に北条氏に奪われていきました。

名目上の権限

将軍は、基本的には名目上の最高権力者として、幕府内外で威信を保っていました。朝廷においても、将軍は“征夷大将軍”として格別な地位を保持し、朝廷の許可を得ることで合法的な権力を持つ存在として認められていました。

しかし、実際に幕府の運営を支配していたのは、次第に執権を握った北条氏に変わっていきます。

    将軍と執権の関係

    将軍と執権の関係についてまとめました。

    なお、鎌倉幕府の執権については以下の記事でくわしく解説しています。
    鎌倉幕府の執権とは?歴代執権一覧と役割、北条氏の権力をわかりやすく解説【高校生テスト対策】

    執権制度の成立

    将軍と執権の関係は、鎌倉幕府成立からしばらくして、次第に変化を見せました。源頼朝が将軍として成立させた鎌倉幕府は、初期には頼朝自身が権力を握り、将軍が実際の政治・軍事を担当していました。

    しかし、頼朝が死去した後、頼家(頼朝の息子)が将軍として後継者となるものの、実際の政権運営は、北条時政などの北条氏が主導するようになります。

    北条氏による執権政治の確立

    北条氏は、将軍の後見人である執権という地位を獲得することで、実質的な支配者となりました。

    最初は将軍と執権の間で権力が共有されていましたが、次第に執権の地位は実際の権力を持つものとなり、将軍は名目上のリーダーとして残りました。

    特に、北条泰時北条時頼の時代に、執権制度は確立し、北条氏が実権を握り続けることとなります。

    将軍と執権の役割の違い

    将軍は、名目上の最高権力者として位置づけられますが、実際の権限は弱まっていきます。将軍は朝廷から任命される存在であり、その地位を保つためには政治的な支持が必要でした。

    一方、執権は、実際の政治的・軍事的な権限を持ち、幕府の運営を主導します。執権は、将軍を支配する立場に立つようになり、時には将軍に対しても強い影響を持つことがありました。

    将軍の権力の象徴化

    最終的に、将軍は単なる象徴的な存在となり、実際の政務や軍事は執権に任される形になりました。

    特に、北条氏が権力を握った後、将軍は形式的な役職に過ぎなくなり、幕府の実権を執るのは北条氏の執権政治となりました。

    この時期、将軍は権威的な存在として幕府の安定を象徴する立場に過ぎなかったと言えます。

      鎌倉幕府の将軍一覧【テストで押さえておきたい!】

      鎌倉幕府の将軍を以下の表にまとめました。

      将軍名在職期間出来事
      1源頼朝1192年~1199年【1199年】源頼朝死去(死因は不明。落馬とも)
      2源頼家1202年~1203年【1203年】比企能員の乱
      3源実朝1203年~1219年【1206年】チンギス=ハンがモンゴル帝国を建国
      【1213年】和田合戦(和田義盛の滅亡)
      【1218年】武士としてはじめて右大臣に任命される
      【1219年】公暁により暗殺される
      4藤原頼経1226年~1244年【1232年】執権・北条泰時が御成敗式目を制定
      5藤原頼継1244年~1252年【1247年】宝治合戦
      6宗尊親王1252年~1266年【1260年】日蓮が『立正安国論』を北条時頼に献じる
      7惟康親王1266年~1289年【1268年】北条時宗が執権に就任
      【1274年】文永の役
      【1281年】弘安の役
      【1284年】北条貞時が執権に就任
      【1285年】霜月騒動(安達泰盛の滅亡)
      8久明親王1289年~1308年【1293年】鎮西探題の設置
      【1297年】永仁の徳政令
      9守邦親王1308年~1333年【1324年】正中の変
      【1331年~】元弘の乱
      【1333年】鎌倉幕府滅亡

      テストでよく出る鎌倉将軍の変化を解説

      鎌倉幕府の将軍は源氏→藤原氏→皇族と移り変わっていきました。

      なぜそのように変化していったのかをまとめました。

      勉強中のペンとノート

      1~3代:源氏将軍

      初代源頼朝から3代源実朝までは源氏が将軍を務めていました。

      平氏に対して平安時代末期は源氏と平氏が武家として2大勢力であり、平清盛とその勢力に対抗するために源氏の棟梁である源頼朝の血筋は重要な大義名分でした。

      ただ、源頼朝が死ぬと鎌倉幕府のトップが源氏である必要性はなくなってしまいます。そこで源頼朝は鎌倉幕府の将軍職を世襲制にするため、征夷大将軍に任命されるよう朝廷に働きかけました。そうすれば、鎌倉幕府のトップは「源頼朝」という個人ではなく「征夷大将軍」という役職を得た人間(つまり、源頼朝の息子たち)が継げるからです。

      この試みが成功し、2代目の将軍に頼朝の息子の源頼家が就任し、鎌倉幕府のトップに就きました。

      ところが北条氏をはじめとする有力御家人は源氏の力をおさえて自分たちの権力を高めるため、有力御家人13人からなる合議制システムをつくります。この合議制を経て重要な政治的決定がなされるため、源氏将軍(源頼家)の意思がとおりにくくなりました。

      しかも13人の有力御家人のなかで源頼家側にいた梶原景時と比企能員が北条氏(北条時政と北条政子)によってほろぼされます。

      さらに比企能員の謀殺に怒った源頼家は北条氏討滅を命令しますが、逆に北条政子によって出家・追放させられてしまいました。

      この結果、源実朝は弱冠12歳で将軍に就任しますが、北条時政と北条政子の傀儡(あやつり人形)でした。右も左も分からないまま、北条氏は和田義盛など有力御家人を滅ぼして鎌倉幕府内の権力を掌握します。

      対する源実朝は、朝廷に盛んに働きかけて官位を高めていきます。武家として初の高位である右大臣拝命に成功します。ところが、右大臣拝賀の儀式を鶴岡八幡宮で行った帰りに、2代将軍・源頼家の遺児である公暁に暗殺されてしまいます。

      この事件は公暁の勘違いとも、執権・北条義時の策謀ともいわれています。

      4~5代・摂家将軍

      源氏の嫡流が途絶えたため、鎌倉将軍の座が空白になります。北条氏は友好な関係にあった後鳥羽上皇の皇子を時期将軍として迎える予定にしていました。

      ところが源実朝が暗殺されると後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して不信感を抱くようになり、皇子の将軍就任を拒否します。

      代わって藤原摂関家から藤原頼経が鎌倉に下向します。ただこの時点では藤原頼経の官位は低く、征夷大将軍に任命されるまで数年待つ必要がありました。それまでの間、北条政子が政務を代行することになりました。

      この混乱に乗じて後鳥羽上皇は鎌倉幕府討滅の軍を起こします(1221年承久の乱)。この乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に配流されます。

      後鳥羽上皇を失ったことで、朝廷では最高権力者が藤原頼経の父・九条道家に代わります。九条道家は息子の藤原頼経をつうじて鎌倉幕府をあやつろうとしますが、鎌倉幕府内では執権・北条泰時を中心とした体制が確立しており、失敗。

      警戒された4代将軍・藤原頼経は鎌倉から追放されました。

      将軍を後継したのは藤原頼経の息子・藤原頼嗣でした。藤原頼嗣は5代執権・北条時頼から熱心な教育をほどこされ、「鎌倉幕府にふさわしい将軍」になることを期待されます。

      ところが幕府内である謀反計画が明るみに出た際に藤原頼嗣の名前が謀反人リストにのっていました。

      これ以上摂家将軍の血統を幕府に置いておくと火種になると判断され、藤原頼嗣も鎌倉から追放。これで摂家将軍は終了しました。

      6~9代:皇族将軍

      6代目の将軍として鎌倉に迎え入れられたのは、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王でした。

      宗尊親王は和歌に政務に一切かかわらず、和歌に親しむ姿勢を取り続けます。ところが摂家将軍が鎌倉幕府を乗っ取る動きが過去に起こっていたため、宗尊親王も北条氏から強く警戒されます。

      その警戒の果てに宗尊親王も鎌倉幕府から追放されてしまいました。

      その後を継いだ息子の惟康親王も、2度の元寇への鎌倉幕府の対応が落ち着いた1289年、突如として謀反の疑いで追放されます。

      この頃、朝廷では後嵯峨天皇が息子たちへの天皇位譲位をめぐって騒動を起こします。第1皇子の後深草天皇に譲位した数年後に無理やり、第2皇子へ譲位させます(亀山天皇)。

      後嵯峨天皇の死後、天皇位をめぐって朝廷は大覚寺統と持明院統に分かれ対立します。この対立を収拾するため8代執権・北条時宗は、交互に天皇位に就く「両統迭立」を朝廷に提案します。

      ところが当時天皇位にあった後深草天皇は、鎌倉幕府を味方に取り込んで自身の皇子を天皇位につけることを画策します。そこで、自身の皇子(久明親王)を鎌倉幕府に将軍として下向させました。

      久明親王は政務に一切かかわらず、和歌に親しみます。ところが、これまでの摂家将軍・皇族将軍と同様に久明親王も謀反の疑いをかけられて将軍位を退任することになりました。

      最後の鎌倉将軍となったのは、久明親王と宗尊親王の娘との間に生まれた守邦親王でした。

      これまでの将軍同様に傀儡状態で政務に一切かかわらなかったようです。

      そして久明親王在位中に鎌倉幕府がほろぼされます。将軍としての地位も相当低下させられていたようで、北条得宗家の大半が自害したにもかかわらず久明親王は出家で済みました。

      その3か月後に亡くなっています。

      将軍制度が鎌倉時代に与えた影響

      武家政権の確立と朝廷との関係

      鎌倉幕府の将軍制度は、武家政権を確立する上で非常に重要な役割を果たしました。源頼朝が初代将軍に任命され、征夷大将軍としての権限を持つことで、武士が政権を握る基盤が作られました。

      この将軍の地位は、後の武士政権のモデルとなり、他の武士政権に影響を与えました。

      しかし、朝廷との関係も重要でした。鎌倉幕府は朝廷の正式な承認を得て成立したものの、実際には朝廷の権威を超えていくことになります。将軍は形式的には朝廷から任命される存在であり、武士政権が成立しても、名目上は朝廷との関係が維持されていました。

      摂家将軍の任命は、その象徴的な部分であり、幕府と朝廷との連携を図るための策でした。

      将軍が象徴的存在へと変化した理由

      鎌倉幕府の将軍は、最初は実際に政権を担っていましたが、次第にその役割は象徴的なものへと変わっていきました。その主な理由は、北条氏の執権政治の強化です。

      将軍の後見人であった北条氏は、次第に将軍を名目上の権威として保持し、実際の政治運営を掌握していきました。例えば、源頼朝の後を継いだ頼家や、次代の将軍である実朝の権限は非常に弱く、彼らの後ろ盾となる北条氏が幕府の実権を握ることになりました。

      将軍は、名目上の権威を保持し続けましたが、政治や軍事の実権は執権に移り、最終的には将軍の権力は形式的なものとなったのです。

      このように、将軍の役割は次第に象徴的な存在へと変わり、実際の権力は執権に移行したため、将軍制度はその後も形式的に維持されました。

      鎌倉幕府の将軍に関するテスト頻出問題

      鎌倉幕府の将軍について、テストでよく問われる内容を問題例とともに紹介します。

      勉強をがんばる高校生

      よく出る問題例①:将軍と執権の関係

      鎌倉幕府の初代将軍は誰か。また、その後の将軍と執権の関係を説明しなさい。

      【解答例】

      源頼朝が将軍として鎌倉幕府を率いていた。頼朝の死後、将軍の権限は次第に薄れ、実権は北条氏が握ることになった。北条氏は将軍の後見人として執権の地位を確立し、将軍は形式的な存在となった。執権政治によって、実際の政務や軍事の指導は北条氏が行い、将軍は名目上の地位に過ぎなくなった。

      よく出る問題例②:摂家将軍

      鎌倉幕府における摂家将軍とは何か。藤原頼経が任命された理由を説明しなさい。

      解答例

      摂家将軍とは、朝廷の摂関家から迎えた将軍を指す。摂関家は、藤原氏が代々摂政や関白を務める家系で、朝廷に強い影響力を持っていた。鎌倉幕府は摂家将軍を幕府の形式的なトップに任命することで、幕府と朝廷との関係を安定させ、外部の反発を抑えようとした。特に、藤原頼経は、13世紀初頭に摂家将軍として任命され、朝廷との調整役としての役割が期待された。

      まとめ

      9人の鎌倉将軍をまとめて紹介しました。1~3代目は源氏将軍、4~5代目は摂家将軍、6~9代目は皇族将軍でした。

      初代源頼朝の死後は、北条氏など有力御家人の傀儡となり、政務に関わっていなくても謀反の疑いをかけられて追放あるいは退位させられています。

      在位期間が最も長いのは最後の将軍・守邦親王で、最も短いのは2代将軍・源頼家です。

      ※関連記事:鎌倉幕府の執権:17人の執権北条氏の業績や出来事をまとめて紹介(元寇、承久の乱など)

      【参考】
      Wikipedia
      日本史資料室

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