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南北朝の動乱を解説:南北朝に分かれた理由、どちらが勝ったのか、終わらせた人物は誰か

後醍醐天皇 高校生勉強方法
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南北朝の動乱について、中学生や高校生向けに説明します。

  • なぜ南北朝に分かれたのか
  • 南北朝の有力武将
  • 南北朝の戦いの流れ
  • どちらが勝ったのか
  • 南北朝時代を終わらせた人物

※関連記事:日本史年号一覧:覚えやすい語呂合わせと入試によく出る重要な出来事を年表を使って解説

南北朝時代とは

南北朝時代は1335年から1392年までの60年弱の時代を指します。

朝廷が2つに分裂し、北朝と南朝に分かれて争っていた時代です。

朝廷の両統迭立が原因

南北朝に分かれたそもそもの原因は、鎌倉時代にありました。

1246年に後嵯峨天皇が譲位後、一度は天皇位を譲った後深草天皇を無理やり弟の亀山天皇に譲位させます。これが発端となって持明院統と大覚寺統に分かれ、天皇位をめぐって争います。

鎌倉幕府の仲介で持明院統と大覚寺統が交互に天皇位に就くことになりました。

1333年鎌倉幕府滅亡(元弘の変)

大覚寺統の後醍醐天皇は息子に天皇位を譲ろうとしますが、鎌倉幕府が反対します。そこで後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を決意します。

1度は失敗しますが(正中の変)、後醍醐天皇の綸旨に呼応した足利尊氏や新田義貞らの活躍で、ついに1333年鎌倉幕府は滅亡します。

1335年足利尊氏が後醍醐天皇に反乱を起こす

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が建武の新政をはじめました。1335年中先代の乱を鎮圧するために足利尊氏が鎌倉に軍を率いて赴き、そのまま京都にいた後醍醐天皇に対して反旗を翻しました。

京都を追われた後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)に逃亡し、吉野で朝廷としての政治をはじめます。この朝廷が南朝と呼ばれます。

一方、足利尊氏は京都で光明天皇を即位させました。こちらを北朝と呼びます。

南朝・北朝の有力武将

南朝・北朝ともに天皇を後援する有力武将がついていました。

 初代天皇有力武将
南朝後醍醐天皇楠木正成・新田義貞・北畠顕家・北畠親房ら
北朝光明天皇足利尊氏・高師直・今川貞世(了俊)ら

まとめると、両統迭立を解消するために鎌倉幕府はほろぼされ、その後の後醍醐天皇の政治体制に不満を持った武将たちが多かったため、南朝と北朝に分かれて争うことになったのです。

南北朝の動乱

朝廷が南朝と北朝に分かれた後、互いに相手をたおそうと戦がたびたび起こります。

以下の本などを参考にした内容をまとめました。


南北朝動乱 太平記の時代がすごくよくわかる本 (じっぴコンパクト新書)


南北朝 日本史上初の全国的大乱の幕開け (朝日新書)

1336年箱根・竹ノ下の戦い

新田義貞が鎌倉の足利尊氏を攻めて敗北します。後醍醐天皇は比叡山に逃亡し、足利尊氏は京都に入ります。

1336年第一次京都合戦

陸奥国から北畠顕家が参陣し、後醍醐天皇に味方します。新田義貞・楠木正成・北畠顕家の軍が京都の足利尊氏軍を破ります。

敗北した足利尊氏は丹波に逃れます。

1336年豊島河原(てしまがわら)の戦い

足利尊氏は再度の入京をしようと北畠顕家、新田義貞軍と大阪府の豊島河原で戦います。

足利尊氏はこの戦いで敗北し、さらに背後から楠木正成が追ってきたため九州に逃れます。

1336年光厳天皇が足利尊氏に新田義貞追討の院宣を出す

九州に逃れる最中、足利尊氏は光厳天皇より新田義貞追討の院宣を得ます。これにより、足利尊氏は朝敵ではなくなり、同時に南朝と北朝の対立も本格化しました。

1336年多々良浜の戦い

九州に入った足利尊氏方に菊池武敏が攻めかかります。ところがその軍勢の大半が日和見か足利尊氏方に寝返ったため、足利尊氏の勝利に終わります。

1336年湊川の戦いで楠木正成戦死

院宣を得て足利尊氏の軍勢は膨れ上がります。その軍勢を連れて足利尊氏は京都に再度攻め寄せます。

後醍醐天皇の命で楠木正成・新田義貞の軍勢は湊川で足利尊氏軍と激突しますが、敗北。楠木正成は戦死します。

一方、新田義貞は後醍醐天皇とともに比叡山に逃亡します。

1336年第二次京都合戦

足利尊氏は比叡山を攻め、後醍醐天皇の忠臣を次々と撃破、敗死させます。後醍醐天皇は一度、足利尊氏に降伏して三種の神器を渡します。新田義貞は恒良親王、尊良親王を奉じて北陸へ向かい、北陸朝廷を掲げました。北畠顕家は東北で足利方と戦闘していました。

1336年光明天皇即位

京都で足利尊氏は光厳上皇の弟を即位させます(光明天皇)。これが北朝の成立とされます。

1336年後醍醐天皇が吉野に逃亡

京都で幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野に逃亡します。

1337年北畠顕家が鎌倉を攻略

南朝方の北畠顕家が南下し、新田義貞や北条時行らと合流して鎌倉の足利方の軍勢を破ります。

1338年石津川の戦で北畠顕家戦死

1338年、石津川(現在の大阪府堺市)の戦いで足利尊氏の執事・高師直の軍勢と南朝方の北畠顕家が対峙します。結果は高師直の勝利に終わり、北畠顕家は戦死しました。

1338年新田義貞、藤島の戦で敗死

南朝方の主力だった新田義貞が藤島(現在の福井県福井市)で斯波高経と対峙し、敗死します。ただし、この後も新田郡は斯波高経と互角の戦いをつづけました。

1339年後醍醐天皇崩御、後村上天皇即位

1339年、後醍醐天皇が死去します。その前日に息子の後村上天皇に譲位しました。

1348年四条畷の戦

南朝方の楠木正行は四条畷(現在の大阪府)で北朝方の執事・高師直と対峙し、敗北します。これにより、高師直の北朝内での勢威が大きくあがり、足利直義(足利尊氏の弟)との対立が激化していきます。

1348年高師直の圧力により足利直義が引退(二頭政治の終了)

1348年、高師直の兄弟である高師泰が京都に軍勢を率いてやってきます。恐れをなした足利直義は足利尊氏の館に逃げ込み、交渉の末、引退することで決着しました。

この後、足利直義の息子である直冬が九州に下向し、九州で大きな勢力となりました。それを見て足利直義は京都を脱出して南朝方へとくらがえ。畿内の北朝方勢力を次々と破り、京都を占領します。

1351年第三次京都合戦

足利尊氏は息子であり第2代将軍・足利義詮と合流して京都の足利直義を戦い、破ります。ところが敗北した直義方に武将たちが参加し、軍勢がふくらみます。それをみて足利尊氏・義詮は京都から脱出します。

1351年打出浜の戦いで高師直・高師泰兄弟が失脚、殺害

足利尊氏は足利直義と打出浜(現在の兵庫県)で対峙します。結果は足利直義の勝利となり、高師直・師泰兄弟は出家させられます。さらに京都に向かう道中で殺害されました。

高師直・師泰兄弟を討滅したことで足利直義は足利尊氏らと融和に向かいます。

ところが、南朝との講和交渉を担当するも失敗してしまいます。さらに足利義詮による所領改革で足利直義は政治的な力を失い、引退を表明します。足利尊氏の説得で引退撤回するも、政治的な立場はかなり低下していました。

さらに、足利直義と講和したい足利尊氏と、足利直義と折り合いの悪い足利義詮の間で政治的な対立が起こるようになりました。

1351年正平の一統(南朝と室町幕府の一時的な合体)

1351年、足利義詮主導で幕府と南朝が講和し合体しました。足利尊氏は足利直義と再び戦わざるを得なくなり、勝利して次第に追い詰めていくことになりました。

そして1352年足利直義は降伏。その1か月後に病死しています。

また、南朝は北朝に返還していた三種の神器を取り戻します。

1352年第四次京都合戦

足利直義の死後、足利尊氏は南朝によって征夷大将軍を罷免されます。南朝は幕府を滅ぼそうとします。これにより正平の一統は破綻し、再び南北朝の戦いがはじまりました。

南朝方は巨大な勢力となって京都に攻め入り、北朝方は敗北。崇光天皇も連行されたことで事実上、消滅しました。

ところがこの直後に足利尊氏が戦に勝利したことで幕府方は盛り返し、京都を奪い返します。

1353年第五次京都合戦

故足利直義の子である足利直冬が南朝に帰順し、さらに恩賞不足への不満から北朝の山名師義が南朝に寝返ります。これにより南朝方は勢力を盛り返し、京都に攻め入り占領します。

足利義詮は後光厳天皇を連れて美濃(現在の岐阜県)へと逃亡、勢力を盛り返してすぐさま京都を奪い返します。

1355年第六次京都合戦

南朝は前年に死去した北畠親房に代わって足利直冬を総大将として京都に攻め込みます。一方の北朝・足利尊氏らはわざと京都を占領させたうえで、包囲するという作戦を取りました。足利義詮の軍勢と挟撃して、足利直冬を撃破。京都を奪い返します。

さらに、幽閉されていた光明天皇も奪還しました。

1361年第七次京都合戦

南朝は京都を攻め、一時的に占領することに成功します。しかしすぐに北朝に奪い返されます。

この頃、南朝・北朝ともに戦争に疲れていました。南朝方の有力武将である楠木正儀(楠木正成の三男)は北朝との和平を主張し、後村上天皇も和平を検討しはじめます。

ところが北朝の将軍・足利義詮と南朝の後村上天皇が相次いで死去。和平交渉は中断しました。

1369年南朝方の楠木正儀が北朝に帰順

和平交渉中断後も楠木正儀は和平の道を模索します。ところが南朝は強硬派の長慶天皇が即位したため、和平の道は閉じていきます。

これを機に北朝方は楠木正儀を調略、北朝方に帰順させます。南朝は有力武将を失ったことで勢力を大きく減衰させました。

楠木正儀はその後南朝に戻りますが勢力を失っており、北朝との戦いに敗れて本拠地である千早城を失っています。

1392年南北朝統一

1383年、南朝の長慶天皇が和平派である後亀山天皇に譲位します。その後も南朝方の有力武将が次々と死去したため、南朝の軍事力は小さくなりました。

これをみて北朝の将軍・足利義満は南朝が北朝に吸収される形で南北朝を統一させました。

ただし、この後も15世紀後半まで南朝方の遺臣が抵抗をつづけていました。

南北朝の戦いはどちらが勝ったのか

前述のように、南朝と北朝は京都の支配をめぐって何度も戦いを繰り広げました。最終的な勝者は北朝と言って良いでしょう。

理由として、南朝は北畠親房の死後は勢力がかなり衰え、北朝の軍事的優位が固まっています。また、南朝が北朝に吸収されるように(南朝の後亀山天皇が譲位する形で)南北朝が統一されています。

南北朝時代を終わらせた人物

南北朝時代は60年ほど続きました。その最後は南北朝統一でした。この統一をなしとげたのは幕府3代将軍・足利義満でした。

足利義満は足利尊氏の孫で、室町幕府の最盛期をつくりだした将軍です。

山名氏清や大内義弘ら有力守護大名を次々とほろぼし、幕府の軍事的優位性を確立しました。その甲斐あって、南北朝合一という幕府内でも意見の分かれる大事業を進めることができました。

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まとめ

いかがでしょうか。

南北朝の動乱について時系列で紹介しました。

南北朝時代は1335年から1392年までの約60年間つづきました。7度にわたって京都で戦を行い、北朝が軍事的に優位な立場に立ちました。3代将軍足利義満によって南北朝は統一され、北朝が事実上勝利しています。

南北朝時代は公家が無力化し、武家政権が単独で成立していった時代でした。この流れが室町時代、戦国時代へとつながっていきます。

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