江戸時代の終わりから明治時代にかけて、日本は外国との間で「不平等条約」を結ばされ、領事裁判権や関税自主権という大切な国の権利を失ってしまいました。
でも、明治政府は近代国家をめざし、外交官たちが努力して少しずつ主権を取り戻していきます。
この記事では、「領事裁判権」と「関税自主権」の意味や、それがなぜ問題だったのか、誰がどうやって解決したのかを中学生にもわかりやすく解説します。
定期テストや高校入試によく出るポイント、一問一答、記述対策まで完全対応!日本の近代化の流れをしっかり理解して、得点アップにつなげましょう。
領事裁判権と関税自主権ってなに?中学生向けにわかりやすく解説
日本が開国して外国と貿易を始めたころ、日本は外国と結んだ「不平等条約」によって、大きな不利益を受けていました。その代表的な内容が、「領事裁判権」と「関税自主権の欠如」です。
この2つの言葉は漢字が多くて難しく見えますが、どちらも日本が外国より立場が弱かったことを表す大事なキーワードです。定期テストや高校入試にもよく出るので、意味と流れをしっかり覚えましょう。
領事裁判権とは?外国人が日本の法律で裁かれない制度
どうしてこんな制度ができたの?
領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の法律で裁かれず、自分の国の領事(外国政府の代表)が裁判を行う権利のことです。
これは、1858年の日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で初めて日本に認めさせられた制度で、イギリスやフランスとも似た条約が結ばれました。
当時の日本は、外国との戦争を避けたい、貿易を始めたいという思いから、不利な内容でも条約を結ばざるを得ませんでした。欧米列強(強い国々)に比べ、日本は国力が弱く、対等な交渉ができなかったのです。
どんな問題があったのか?
日本で犯罪をした外国人が、自分の国の法律で裁かれるというのは、日本の主権(国を自分たちで治める力)が守られていないという大きな問題です。
たとえば:
- アメリカ人が日本で人をけがさせても、日本の警察が逮捕できない
- アメリカの領事がゆるい罰しか与えなかったら、日本は文句を言えない
これは、日本の法律が外国人に通じない=治安を守れない状態です。日本にとってとても不利で、国のプライドにも関わる問題でした。
関税自主権とは?外国との貿易で日本が決められないこと
関税って何?なぜ自主的に決められなかったの?
関税(かんぜい)とは、外国からの品物にかける税金のことです。たとえば、外国の織物(布)や機械が日本に入ってくるときに、「関税」をかけて高くすることで、日本の商人や工場を守ることができます。
でも、開国後の日本は、条約によって関税を自分たちで自由に決めることができませんでした。
外国と結んだ条約の中に、こう決まっていたのです:
「日本の関税は、外国と相談して決めること」
つまり、日本は「安い税しかかけられず、日本の産業が守れない」という状態でした。
不平等条約とセットで覚えよう!
領事裁判権と関税自主権の欠如は、日本が外国にとって“都合のよい”条件をのまされた結果です。
このように、日本が外国よりも弱い立場で結ばされた条約を、「不平等条約(ふびょうどうじょうやく)」と呼びます。
中学生のテストでは、以下のようなセットで出題されやすいです:
キーワード | 意味 | 覚え方のポイント |
---|---|---|
領事裁判権 | 外国人が日本の法律で裁かれない | 外国人が日本の法律に従わない! |
関税自主権 | 日本が関税を自由に決められない | 日本の商人が損してしまう! |
不平等条約 | 上の2つが含まれる、外国に有利な条約 | 明治政府が必死に改正した! |
この2つの内容は、次に出てくる「条約改正」や「明治の外交官の努力」につながる重要なキーワードです。
このあとに紹介する 陸奥宗光(領事裁判権を撤廃) や 小村寿太郎(関税自主権を回復) の活躍とセットで覚えましょう。
なぜこの2つが問題だったの?歴史の流れをおさえよう
日本は江戸時代の終わりに、外国と結んだ「不平等条約」によって、領事裁判権と関税自主権を失ってしまいました。
これによって、日本は外国に対して対等な関係を持てなくなり、「国の主権(自分たちで決める権利)」が大きく制限されました。
ここでは、どうしてこんな条約を結ばされ、日本がどのようにそれを取り戻そうと努力したのかを、歴史の流れにそって見ていきましょう。
※なお、以下の記事で、明治時代の流れを年表を使って解説しています。
中学生向け明治時代の年表
江戸時代末期からの不平等条約のはじまり
日米修好通商条約とは?
1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカと結んだ最初の本格的な貿易のための条約を「日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)」といいます。
この条約には以下のような内容がありました:
- 日本の5つの港を外国に開く(開港)
- 日本に住む外国人が、自分の国の領事によって裁判を受ける(領事裁判権)
- 日本は外国との関税を自由に決められない(関税自主権がない)
つまり、この条約によって、日本は外国に都合のいいルールを認めさせられたのです。
日本はなぜ不利な条約を結んだの?
当時の日本は、まだ武士の時代(江戸幕府)で、近代的な法律や軍隊、外交交渉の力が整っていませんでした。さらに、外国との戦争を避けたかったという理由もあります。
例えば、アメリカの使節・ハリスは、「条約を結ばなければ、軍艦で攻撃する」と強く圧力をかけてきました。
幕府にはその脅しに対抗するだけの軍事力がなかったため、「不平等とわかっていても結ばざるを得なかった」のです。
明治政府の目標「不平等条約の改正」って?
江戸時代が終わり、明治政府ができると、「外国と対等な国になる!」という強い目標が掲げられました。
その中でもとくに大切だったのが、「不平等条約の改正」です。
これは、失われた主権を取り戻し、外国に対して日本が対等な立場になることを意味していました。
「富国強兵」「殖産興業」との関係もチェック!
明治政府は、条約を改正するために、日本の国力を高める政策を次々と行いました。これが「富国強兵(ふこくきょうへい)」「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」です。
用語 | 意味 | 目的 |
---|---|---|
富国強兵 | 国を豊かにし、軍隊を強くする | 欧米列強に対抗できる国づくり |
殖産興業 | 工場や産業を育てる | 貿易で外国に依存しない国にする |
これらの政策のおかげで、日本は急速に近代化し、やがて不平等条約の見直しに成功していくのです。
誰がどんなふうに取り戻した?活躍した外交官を紹介!
日本の近代外交では、2人の有名な人物が大きな成果をあげました。
陸奥宗光(むつ むねみつ)と小村寿太郎(こむら じゅたろう)です。
彼らの活躍によって、日本は領事裁判権と関税自主権を取り戻すことができました。
領事裁判権の撤廃に成功した人物=陸奥宗光(むつむねみつ)

日英通商航海条約の内容と意義
1894年、明治政府の外務大臣・陸奥宗光は、イギリスと日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を結びました。
この条約によって、
- 領事裁判権の撤廃(=外国人も日本の法律で裁かれる)
が実現しました。
イギリスは当時、世界で最も影響力のある大国でした。日本がこのイギリスと対等な立場で条約を結んだことは、他の国との条約改正にもつながる大きな第一歩となりました。
列強から信頼を得るための努力とは?
陸奥宗光は、単に「条約を改正してください」とお願いしたのではありません。
日本が「西洋と同じように法律が整い、きちんと裁判ができる国」になったことを、ヨーロッパ各国に見せるために、次のような努力をしました。
- 民法・刑法などの法律を整える
- 裁判制度を西洋型に整備
- 軍隊や経済も発展させて、対等に交渉できるようにする
つまり、「日本はもう後進国ではない」と示したからこそ、イギリスも領事裁判権を撤廃してくれたのです。
関税自主権の回復に成功した人物=小村寿太郎(こむらじゅたろう)

日米新通商航海条約とは?
1911年、外務大臣の小村寿太郎は、アメリカと新しい条約である「日米新通商航海条約」を結びました。
この条約によって、
- 関税自主権が回復(=日本が自由に関税を決められるようになった)
ことが正式に認められました。
これで日本は、開国以来ずっと続いていた「不平等条約」から、完全に脱出したことになります。
日本が交渉に勝てるようになった理由
小村寿太郎が関税自主権を回復できた理由も、いくつかあります。
- 明治政府の努力で、日本の経済・軍事・法律が西洋と同じレベルに近づいた
- 日清戦争・日露戦争に勝利し、日本がアジアの強国として認められた
- アメリカが日本との関係を重視し始めた時期だった
これらの要因が重なり、小村は日本が対等な立場にあることを前提に交渉を進めることができたのです。
ポイントまとめ(テストに出る!)
内容 | できごと | 年代 | 関わった人 |
---|---|---|---|
領事裁判権の撤廃 | 日英通商航海条約 | 1894年 | 陸奥宗光 |
関税自主権の回復 | 日米新通商航海条約 | 1911年 | 小村寿太郎 |
※なお、同じ時期に日本国内では「自由民権運動」が盛んでした。自由民権運動の流れや重要人物について、以下の記事でくわしく解説しています。
【自由民権運動とは?】中学生向けにわかりやすく解説!定期テスト・高校入試での重要人物・問題対策まとめ
この分野はテストで必ず出る!中学歴史の定番問題
「領事裁判権」「関税自主権」「不平等条約」「条約改正」は、中学歴史で毎年のように出題される重要語句です。
ここでは、覚えた知識を確認・定着できる問題の演習でテスト対策をしましょう。
定期テスト頻出!用語確認の一問一答【10問】
語句穴埋め形式で、復習にぴったり!
以下の問題で知識を確認しましょう。語句を正確に覚えることが、得点アップの第一歩です。
【一問一答】穴埋め問題(全10問)1.1858年、江戸幕府はアメリカと_______を結び、開国した。
→ 答え:日米修好通商条約
2.日米修好通商条約で認めた、外国人が日本の法律で裁かれない権利を_______という。
→ 答え:領事裁判権
3.日本が外国との貿易において、税金(関税)を自由に決められなかったことを_______がないという。
→ 答え:関税自主権
4.領事裁判権と関税自主権の欠如がある条約をまとめて_______と呼ぶ。
→ 答え:不平等条約
5.明治政府の外務大臣_______は、日英通商航海条約を結び、領事裁判権を撤廃した。
→ 答え:陸奥宗光
6.小村寿太郎は_______という条約をアメリカと結び、関税自主権を回復した。
→ 答え:日米新通商航海条約
7.明治政府は、_______という政策で国を豊かにし、軍隊を強くしようとした。
→ 答え:富国強兵
8._______とは、工業や産業を発展させる政策のこと。
→ 答え:殖産興業
9.明治時代の日本が目指したのは、_______国家として外国と対等になることだった。
→ 答え:近代
10.不平等条約の改正には、日本の_______制度の整備や法の近代化が重要だった。
→ 答え:裁判(司法)
高校入試によく出る!記述対策問題【解説つき】
例:「陸奥宗光が行った条約改正の内容を説明しなさい」
【模範解答例】(40〜50字程度)
陸奥宗光は、日英通商航海条約を結び、外国人が日本の法律で裁かれるようにして、領事裁判権を撤廃した。
【解説】
- ポイントは「どの条約か」「誰が」「何を」「どう変えたか」の4つ。
- 「撤廃」や「日本の法律で裁かれるようにした」という表現が入っていると◎。
- 「日英通商航海条約」もきちんと書けるようにしておきましょう。
「不平等条約」「条約改正」「近代国家の成立」をセットで理解しよう
まとめて覚えると得点力アップ!
この3つのキーワードはセットで出る!
用語 | ポイント | 関連人物 |
---|---|---|
不平等条約 | 日本が外国に不利な条件で結んだ条約 | → 江戸幕府時代に結ばれた |
条約改正 | 不平等条約の内容を見直して対等な条約にすること | 陸奥宗光・小村寿太郎 |
近代国家の成立 | 日本が法や制度を整え、主権を取り戻し、欧米と対等になる | 明治政府の努力の成果 |
これらを「なぜ・どうやって・誰が」という視点でつなげて覚えると、記述問題にも強くなります。
まとめ|日本が主権を取り戻すまでの努力をしっかり覚えよう!
中学生に伝えたいポイント3つ!
①なぜ不平等だったのか
→ 外国人が日本の法律に従わず、日本が関税を自由に決められない状態だったから。主権が制限されていた。
②どんな人物がどんな方法で解決したのか
→ 陸奥宗光が領事裁判権を撤廃、小村寿太郎が関税自主権を回復。
それぞれ、イギリス・アメリカと条約を結び直した。明治政府の近代化努力が背景にある。
③試験に出るポイントと語句の整理
- 領事裁判権・関税自主権
- 不平等条約・条約改正
- 日米修好通商条約・日英通商航海条約・日米新通商航海条約
- 陸奥宗光・小村寿太郎
→ これらを人・できごと・条約のセットで整理するのがコツ!
学んだことを次につなげよう(日露戦争や国際社会との関係へ)
不平等条約を改正できたことで、日本は近代国家としての信用を得ることができました。
その後、日本は日清戦争・日露戦争などに勝ち、国際社会の中で「強国」としての地位を確立していきます。
「不平等条約の改正」は、日本の独立と近代化の土台となった重要なステップだったのです。
次は、こうした背景がどうやって戦争や外交につながっていくのかを学んでいきましょう。
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